かし、どの顔よりも彼の心を惑乱させたのは、父俊亮の顔だった。俊亮の顔が浮かんで来たのは、時間からいうとずっと後のことだったが、それは忽ちのうちに他の顔を押しのけ、悲痛なまなざしをもって彼にせまって来るのだった。
(自分は、さっき自分のやったことで、自分自身を辱《はず》かしめただけでなく、父さんをも辱かしめていたのだ。いや、父さんこそは誰よりも大きな辱かしめをうけた人だったのだ。)
彼の心は、そう気がつくと今までとはちがった意味でうずきはじめた。先生や友人に対する自分の面目、そんなものは、自分が父に与えた恥辱にくらべると物の数ではなかった。春月亭のお内儀のまえに手をついて、陳弁《ちんべん》し謝罪しなければならない父、――思っただけで、彼は身ぶるいした。
「次郎さん、こうなったからには、もう、お祖母さんの仰《おっ》しゃるように、押しづよく出るより手はありませんよ。……しかし、旦那が帰っておいでたら、何と仰しゃいますかね。」
さっきから、店のあがり框に腰かけて、首をふったり、額を掌で叩いたりして考えこんでいた仙吉は、いかにもなげやった調子で、そう言いながら、ひょいと立ちあがって、売場の方に歩いて行った。そして、酒甕と酒甕との間にさしこんであった物尺《ものさし》をとって上酒の方の甕に突きこみ、中身の分量をはかっていたが、
「あと二升あまり這入っていますが、これはこのままじゃあ、下酒の方にもまわせませんね。かといって、新しい樽がはいるまでには腐ってしまいましょうし、……いっそ捨ててしまいましょうか。」
次郎は、しかし、それに受け答えする余裕もなかった。彼は妙に気ちがいじみた眼を仙吉になげたあと、がくりと首をたれた。それから、よろけるような足どりで、ふらふらと表通りに出て行った。
彼の足は、ひとりでに町はずれの方に向かっていた。旧藩時代、城下の第一防禦線をなしていた、幅七八間の川に擬宝珠《ぎぼしゅ》のついた古風な橋がかかって居り、その向こうは一面の青田である。次郎は、橋の袂まで来て、青田の中を真直に貫いている国道の乾《かわ》き切った色を、まぶしそうに眺めていたが、そのまま橋を渡らないで、川沿いに路を左にとった。二丁ほど行くと、樟の大木に囲まれた天神の杜がある。彼はその境内にはいったが、社殿にはぬかずこうともせず、日陰を二三間あるいては立ちどまり、また二三間あるいては立ち
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