たふうでもあったが、そのまま腰を落ちつけてしまい、それからは、横目でじろじろ店の方を睨んだり、何かひとりでうなずいたりするだけだった。そして、春月亭のお内儀がいよいよ店を出て行ったのがわかると、いかにも皮肉な笑いをうかべて、仕切りの簾をあけ、
「次郎うまくやったね。いい気味だったよ。」
と、何度も二人にうなずいて見せた。仙吉が、
「しかし、このままではおさまりますまい。かえって藪蛇《やぶへび》になるかも知れませんぜ。」
と、心配そうに言うと、
「そんな気の弱いことでどうするんだね。渡したものに、まるで酒の気がないというのではあるまいし、文句を言って来たら、こちらの上酒はそんなのでございますって答えてやるまでさ。ねえ、次郎。」
と、仙吉をたしなめる一方、いかにもそれが次郎の最初からの肚《はら》だったと言わぬはかりの調子だった。
次郎は、その時までまだ土間に突っ立ったまま、春月亭のお内儀が去った表通りを睨んでいたが、お祖母さんにそう言われると、急にこれまでの興奮からさめてしまった。彼の耳には、お祖母さんの言葉がたまらなく下劣《げれつ》にきこえ、その下劣さが、そのまま自分の行為の下劣さを説明しているということに気がついて、ひやりとするものを感じたのである。
彼は、何かに驚いたようにお祖母さんの顔を見上げた。それから、そろそろと視線を売場の酒甕の方に転じたが、その眼はしだいに冷たい悲しげな光を帯び、最後に、さっき自分がひねった栓《せん》口に釘付けにされたまま、人形の眼のように動かなくなってしまった。
「次郎は、そりゃあ、小さい時から頭の仂く子でね。それに、だいいち思いきりがいいんだよ。仙吉も、こんな時には、少し見習ったらどうだえ。」
お祖母さんは、次郎の気持にはまるで無頓着らしく、仙吉にそう言うと、すっと頭をひっこめて簾戸をしめた。
次郎の眼は、その瞬間、稲妻のように動いてお祖母さんのうしろ姿を逐ったが、そのあと、また栓口に釘付けにされてしまい、暑いさかりの土間の空気に、ぴんと氷のように冷たい線を張った。
彼の動かない眼にひきかえ、彼の頭の中には、たえがたい羞恥《しゅうち》の感情が旋風《せんぷう》のように渦巻いていた。その旋風の中を、朝倉先生夫妻をはじめ、白鳥会で彼が尊敬している生徒たちの顔が、つぎつぎに流れていた。大沢や恭一の顔も、むろんその中にあった。し
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