のに気づくと、急ににっこりして、
「坊ちゃん、どうもご苦労さま。おかげでこの人に馬鹿にされないですみましたよ。……じゃあ、量ってもらいましょうかね。今日は容れものを拝借するのもどうかと思って、私の方で持参しましたよ。」
 と、いったん表の方に出て、誰かを手招きした、すると、間もなく、襟に春月亭と染めぬいてある法被《はっぴ》を着た男が、リヤカーに沢山の空罎をのせてやって来た。
 次郎はその空罎が売場に並べられると、甕の栓をひねって、片っぱしから、それに酒をつめて行った。彼の手はいくぶんふるえていた。ただでさえまだ不慣れな手だったので、桝からこほれる酒がやけにあたりに散らばった。
「もったいないわね。」
 女は、そばに立って、次郎の手つきを見ながら、何度もそうつぶやいた。また、
「いやに色がうすいようだね。色だけは灘酒みたいじゃないの。」
 とも言った。次郎は、しかし、一言も口をきかなかった。そして、量り終って、女の手から預証を受取ると、それをその場でずたすたに裂《さ》いた。彼の眼には久方ぶりで涙がにじんでいたのである。
「まあ、この坊ちゃん、恐いこと。でも、あんたのお蔭ですっかり用がすみましたわ。もうこの婆さんも二度とはお伺いしませんから、安心して下さいね。さようなら。」
 女は、それから仙吉の方を見て、
「あんたにも、用さえすめば文句なしだわ。ほほほ。旦那にもよろしくね。」
 仙吉は、その時まで、すっかり肚胆《どぎも》をぬかれたような恰好で、店の上り框に突っ立ち、次郎の方をぽかんと眺めていたが、女にそう言われると、まるでからくり人形のように、ぴょこり頭をさげた。

 次郎は、女が店を出るとすぐ、なるほど学校の通り道に春月亭という料理屋があり、今のはその門口あたりでよく見かける女だった、ということに気がついたのである。

    一二 天神の杜

 さて、さっきから、簾戸《すだれど》一重へだてた茶の間に坐りこんで、聞き耳を立てていたお祖母さんに、店の話声が逐一《ちくいち》聞えていないはずはなかった。お祖母さんは、事の成行しだいでは、自分で店に出て打って、春月亭のお内儀《かみ》と一太刀交える肚になり、半ば腰を浮かしてさえいたのである。ところが、次郎がだしぬけに「酒はいくらでもあるんだ」と叫んで、汲桶《ため》をさげて井戸端の方に走って行ったのを見ると、さすがにちょっと驚い
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