て、腰を浮かした。
「お内儀《かみ》さん――」
と、仙吉は、妙に沈んだ声で、
「それは小僧じゃないんです。こちらの坊ちゃんで、何もご存じないんですがね。」
「坊ちゃん?」
と、女はちょっといぶかるような顔をしたが、
「坊ちゃんなら、なおいいじゃありませんか。旦那に代って、ああ言って下さるんだから。」
「ところが、実はね。お内儀さん――」
と仙吉は、いよいよ沈んだ調子で、
「差上げようにも、上洒の方は一斗なんてはいっちゃいませんがね。」
女は、ぎろりと眼を光らして、売場の甕《かめ》から、土間につんだ四斗樽までを一巡見まわした。そして、
「空《から》なんですね、あれは。」
と、四斗樽の方にあごをしゃくった。
「実は、そうなんで。」
女は、立っていって樽をたたいてみるまでのことはしなかった。さればといって、べつに同情するようなふうもなく、何かしばらく考えていたが、
「上酒が足りなきゃあ、足りない分は悪い方で我慢しますよ。とにかく、今日は、さっぱりしてもらおうじゃありませんか。」
「その悪い方も、実は――」
仙吉は、そう言って首をたれた。すると女は、急に居丈高《いたけだか》になって、
「馬鹿におしでないよ。なんぼなんでも、一斗やそこいらの酒がなくて、お店があけて置かれますかい。」
とどなりつけた。
次郎は、もうその時には、すっかりふだんの落ちつきを失っていた。彼はいきなり立ち上り、仙吉に向って罵《ののし》るように言った。
「酒はあるんじゃないか。裏の納屋《なや》にいくらでもあるんだ。僕とって来てやるよ。」
彼は、仙吉があっけにとられて、まだ返事をしないうちに、もう売場の横の棚にふせてあった汲桶《ため》をおろし、それをさげて、いっさんに台所の方に走って行った。そして、井戸端でそれに水を七分ほども汲むと、それを手のひらで肩のところにかつぎ、定まらない足をふみしめ、ふみしめ、店に帰って来た。
店では、女が恐ろしい権幕《けんまく》で仙吉に何か食ってかかっているところだった。次郎はしかし、それには頓着せず、上酒の甕の蓋をとって、汲桶の水をその中にざあざあ流しこんだ。
次郎の顔は、その時、すっかり蒼ざめていた。彼は、しかし、甕の蓋をかぶせ終ると、いくらか血の気をとりもどして、女の方を見た。女は、まだその時まで、仙吉を罵りやめないでいたが、次郎が自分の方を見ている
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