な。」
 二人は、それから、いったんめいめいの家に帰ったが、夕飯をすますと、そろって宝鏡先生をたずねた。形式ばってあやまらなくてもいい、という朝倉先生の注意が、二人を非常に気軽な気持にさせているらしかった。
 宝鏡先生の家は、町はずれに近い、間口二間の古ぼけた店屋のあとで、玄関も何もなかった。二人がその土間にはいった時には、まだそとは明るかったが、蚊のうなりがぶんぶん聞えていた。宝鏡先生は、糊気のない、よれよれの浴衣の襟をはだけ、胸毛をのぞかせて出て来たが、土間に立っている生徒の一人が次郎だとわかると、ちょっといやな顔をした。そして、次郎よりもずっと体格のいい新賀がそのうしろに突っ立っているのを、うさんくさそうに見たあと、
「本田と新賀じゃな。何しに来たんじゃ。」
 と、いくぶん身構えるような態度で言った。
 二人は、少からず面喰らった。しかし、どちらも、それで腹を立てたような様子はなかった。次郎はぴょこりと頭をさげて、
「新賀君と二人で、お荷物のお手伝いに来ました。」
 先生は、拍子ぬけがしたように、二人の顔を見くらべた。しかし、まだ安心がならぬといった眼をして、
「荷物の手伝い? それはもう人をやとってあるんじゃ。」
「そんなら、何か使い走りでもさして下さい。何でもやります。」
 今度は、新賀が言った。
「うむ。――」
 と、先生は、急に二人から眼をはなした。同時に、首をそろそろと垂れはじめたが、垂れ終ったところで、何かを払いのけるように、二三度それを横に振った。
 蚊のうなりが、その時、異様に高くひびいて三人を包んだ。しばらくして、
「よう来てくれたな。」
 と、先生は首を垂れたまま、両手を帯のあたりに組みあわせた。
 そのあと、また、かなり永いこと沈默がつづいたが、
「まあ、二階にあがってくれ。話があるんじゃ。」
 二人は先生のあとについて、二階にあがった。八畳の、天井の低い部屋で、床の間はあったが、軸物一つかかっていなかった。安物の机が一脚と、その上に四五冊の数学の参考書を立てた木立が置いてあるきり、部屋中ががらんとしていた。窓のそとはすぐ隣の屋根で、あいだには青い葉一つ見えなかった。
 三人は座蒲団なしで坐ったが、坐るとすぐ、宝鏡先生はもう一度、
「よく来てくれたな。」
 と、いかにも嬉しそうに言って、二人にあぐらになるようにすすめた。それから、
「わし
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