したりした。
 次郎はきいていてはらはらした。近くの生徒たちの中には、可笑しさをこらえて、肱でつっつきあったりする者もあった。先生たちの顔も変にゆがんでいる。その中で、いつもと少しも変らない顔をしているのは、校長と朝倉先生だけだった。校長の眼は厳粛で、しかも温かだった。朝倉先生の眼はふかぶかと澄んで静かだった。次郎は、二人の眼を見た瞬間、何か大事なことを教えられたような気がした。彼の注意は、それから、二人の顔にすいつけられて、宝鏡先生の言葉がほとんど耳にはいらなかった。
 宝鏡先生が壇をくだると、生徒席の方から、五年生の一人が進み出て、送別の辞を述べたが、これは紋切型で、しかも一分とはかからなかった。最後に体操の先生から、宝鏡先生の出発の日取りや汽車の時刻が発表され。休暇中だからそろってお見送りは出来ない、市内の者で出来るだけお見送りするように、との注意があって、送別式はともかくも無事に済んだ。
 次郎は、何かほっとした気持で、講堂を出た。すると、新賀が彼と肩を並べながら、言った。
「どうだい、今すぐ行こうか。」
「うむ。」
 二人は、その足で、いっしょに生徒監室に行き、朝倉先生の机のそばに立った。次郎はいくぶんはにかみながら、
「先生、僕、宝鏡先生にお会いして、あやまって置きたいと思います。」
「ほう。――」
 と、朝倉先生は、何か書類を読んでいた眼を次郎の方に転じて、しばらくその顔を見つめていたが、
「うむ、そうか。それはいいね。しかし、いっそあやまるんなら、もう学校でない方がいい。お宅をお訪ねしたらどうだい。あと三四日は間があるんだから。」
 次郎は新賀の方をふりむいた。二人はすぐうなずきあった。
「新賀は?」
 と、二人の様子を見ていた朝倉先生は、不審そうにたずねた。
「僕も、本田君といっしょに行くんです。」
「どうして? 本田一人ではいけないのかい。」
「僕もあやまることがあるんです。」
 朝倉先生はちょっと考えていたが、
「そうか。うむ、うむ。」
 と、いかにも感慨《かんがい》深かそうにうなずいて、
「よかろう。じゃあ、二人で行きたまえ。」
 二人は、すぐお辞儀をして、歩き出そうとした。すると、先生は、
「しかし、あやまるったって、今さら何もかしこまって、あの時のことを言い出す必要はない。あの時のことにはふれないで、何か荷造りのお手伝いでもしてあげるんだ
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