学校を動かすにも、やはり同様だね。校長が辛抱強く誠を積んで来られたればこそ、君らのように、進んで校風刷新のために戦おうという生徒も何人かあらわれて来たんだ。君らほどの熱意はなくても、心の中では、君らに味方したいと思っていた生徒が、きっとほかにも沢山あるだろう。四五年前とはたしかに全体の空気が変って来ているよ。この分で、もう二三年も努力すれば、自然に悪風もなくなるだろうと、いつも校長とお話していたところだったがね。」
 大沢は、いつになく、首を垂れて聴いていたが、
「すると、僕、校長先生のお考えをぶちこわすようなことをしてしまったんでしょうか。」
「ぶちこわしたというほどでもないだろう。しかし、校長は、五年が二派にわかれて争うようなことになってはならないって、いつもそれを心配していられたんだ。生徒には、もともと善玉も悪玉もない。それが、はっきり善玉と悪玉とにわかれてしまって、学校が、やむを得ず善玉のあと押しをしなければならんようになっては、教育もおしまいだ、というのが校長のお考えでね。実は、私も、そのお言葉をきいた時には、はっとしたよ。わざわざあんな下手な字なんか書いて、この会の名をそれに因《ちな》んでつけることにしたのも、そのためだったんだ。」
 次郎は眼をかがやかした。
「とにかくはっきりした対立的な情勢を作ったのは、君の失敗だったよ。白鳥芦花に入る気持がほんとにわかっていたら、もっとほかに方法が見出せそうなものだったがね。」
 大沢は、しきりに首をふった。ほかの生徒たちも、お互いに顔を見合わせて默りこんでいる。朝倉先生は、にこにこして、しばらくその様子を眺めていたが、
「こないだ、ある本を読んでいたら、こんな話が書いてあった。それは、支那の何とかいう禅宗の坊さんの話だがね。その坊さんが自分の弟子をほかのお寺にしばらく修行に出してやった。何年かたって、その弟子が帰って来たので、何か得るところがあったのか、とたずねると、弟子は默って地べたに円を描いて見せたそうだ。円が何を意味するのか、われわれ素人にはわからんが、とにかく何か悟りを開いたという意味なんだろう。ところで、そのあとが面白い。その円を見た師匠の坊さんは、たったそれっきりか、と呶鳴りつけたんだ。すると弟子は、今度はその円をさっさと消してしまった、というのだ。どうだい、大沢、円を消してしまったところが非常に面白
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