いではないかね。」
「はあ――」
 大沢は少しも面白そうな顔をしていない。
「君も、どうなり、五年生相当な円を描くことは出来るようになったらしいが、まだその円を消すところまでは行っていないようだね。」
「はあ――」
 大沢は、また「はあ」と答えた。今度は、しかし、何か思いあたるところがあるといったような返事の仕方だった。朝倉先生は、たたみかけて、
「君が、大の字なりに寝転んで、たんかを切ったところなんか、まるで円の上を三角で上塗りしたようなものだったね。それじゃ、せっかくの円も台なしだよ。」
「すみません。」
 大沢は、その大きな肩をすぼめて、右手で後頭部をおさえた。
 次郎は、さっきから、二人の対話に一心に耳を傾けていたが、大沢がすっかり弱りきっているのが、ふしぎでならなかった。彼は七つ八つの子供のころ、「饅頭虎」と「指無し権《ごん》」という二人のならず者が、酒の座で喧嘩をはじめ、父の俊亮がその仲裁にはいったときの光景を思い起していた。父は、その時、両肌をぬいで二人の間に割って入り、「それほど喧嘩がしたけりゃ、おれを片づけてからにせい。おれの眼玉の黒いうちはお互いに指一本ささせないぞ。」といったようなことを大声でどなり、すぐ二人を平身低頭させたが、その時の感激は今に忘れられない。大沢のやったことも、それと同じではないか。自分の身をなげ出して不正を防ごうとしたことが何で悪いのだろう。次郎には、そんな気がしてならなかったのである。で、彼はいきなり先生にたずねた。
「大沢さんのやったこと、どうして悪いんですか。」
 先生は、しばらく返事をしないで、まじまじと次郎の顔を見ていたが、
「君には、ちょっとむずかしいかな。」
 と、またしばらく言葉を切って、
「君は、あの額の意味を考えてみたのかい。」
「考えてみました。しかし、わかんないです。」
「ふむ――じゃあ、今日はいい機会だから、ひととおり話しておこう。はじめての人はよくきいておくんだ。」
 そう言って、朝倉先生は説明をはじめた。しかし、その説明は、最初のうち、額に書いてある文字には少しもふれなかった。話は、先ず、先生がこのごろよく座談会などに出かけて行く近在の村の事から始まった。
 その村には、三十台ぐらいの若い人たちが、二十数名集まって、一つの団体を作り、いつも村のことを研究し、熱心に村生活の調和と革新とを図《はか》
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