拳制裁の悪風はやまんよ。」
「しかし、そういうことを五年生全体の特権のように考えていたことだけは、これで破ることが出来たと思います。」
「その代り、病気を深部《しんぶ》に追いこんだことになるかも知れんね。」
「はあ?」
と、大沢はその大きな眼をぱちぱちさした。すると、先生の澄んだ眼が、かすかに笑って、
「君もまだ、案外、形式主義者のようだね。」
大沢は、すっかりあわてて、膝を立て直した。ほかの生徒たちも、これは案外だという顔をしている。
「むろん、五年生全体の名において、下級生に鉄拳制裁を加えることが、これまで当然のことのように考えられていたのは、この学校の一番の悪風だ。だから、君が、今度五年生になったのを機会に、それを打破しようとしたのは、決して間違いではない。ただその方法に問題があるんだ。何だか、いま聞いたところでは、化膿《かのう》した盲腸を叩きつぶして、腹膜の原因を作った、といった恰好ではないかね。」
「そんなことになるんでしょうか。」
「どうも、そうなりそうだね、鉄拳制裁の好きな連中は、これから、こそこそ勝手な行動に出るよ。ちょうど盲腸からとび出した膿《うみ》のように。」
大沢は、少し眼を伏せて考えこんだ。
「なるほど、五年全体の名において大っぴらにそれがやれなくなれば、形式としては前よりはよくなるわけだ。しかし、実質的には一層始末に終《お》えないものになるかも知れん。実は、学校として、そのことで、これまで五年生に強圧を加えなかったのも、そうなるのを恐れたからなんだ。」
「すると、いつまでもこのままにして放って置かれるつもりだったんですか。」
「そうではない。君らの眼にはどう映っていたか知らないが、大垣校長が、赴任されて以来、内々最も苦心されて来たのは、そのことなんだ。幸い、葉隠の四誓願が、そのまま校訓同様のものになっていたし、校長は、あの大慈悲という言葉を強調して、じりじりと辛抱づよく今日まで努力してこられたんだ。もうそろそろまる四年になるね。校長が赴任されたのは今の五年生が一年の二学期をむかえたときだったんだろう。」
朝倉先生は、そう言って、感慨深そうに、みんなの顔を見まわしていたが、
「吉田松陰の言葉に、天下は大物だ、一朝の奮激では決して動くものではない、それを動かそうと思えば、誠を積まなければならない、といったような意味のことがあるが、一つの
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