たの本心じゃろう。」
「とんでもない。そんなふうにとられましては……」
「すると、やっぱりお芳は約束どおりもらってくださるのかな。」
「そりゃあ、もう、こちら様さえ、ただ今申上げたような事情を、十分ご承知くだすったうえのことであれば……」
「その事なら、はじめから承知していますがな。」
「そうですと、きょうわざわざお邪魔《じゃま》にあがる必要もなかったんです。ただ、私としましては、どの程度に正木からお話申上げてありますか、実はその点が非常に気がかりだったものですから……」
「あんたも、よっほど神経質じゃな、はっはっはっ。じゃが、わしもそれで安心しましたわい。」
 と、運平老は、がらりとくだけた態度になり、
「いや、恥を言えば、おたがいさまでしてな。何しろ、お芳という女は、ご覧のとおりののろま[#「のろま」に傍点]で、女学校にもとうとうあがれなかったし、かたづいた先からは、子供が亡くなったのを幸いに追い出されるし、実は、もう、わしの方で、一生|飼《かい》殺しの腹をきめて居りましたのじゃ。ところが、正木さんでは、そののろまなところが、かえって気に入ったとおっしゃるのでな。」
「恐縮です。」
「それで、あんたにも、そののろま[#「のろま」に傍点]なところを買っていただきたい、と思っていますのじゃ。のろま[#「のろま」に傍点]なだけに辛抱はいくらでもしますぞ。あんたが無理やり引きずり出すようなことさえなさらなきゃあ、めったなことで、自分からおんでるような、気のきいた女ではありませんのでな。そこは、あんたとちがって、豚のように無神経ですよ。」
「これはどうも……」
「いや、ほんとうじゃ。豚ではちとかわいそうなら、まあ山出しの女中と思っていただけば、まちがいありますまい。」
「何をおっしゃいます。」
「いや、山出しの女中と言えば、あいつにも一つだけ取柄がありますのじゃ。それは漬物がなかなか上手でしてな。あいつの漬けた糠味噌《ぬかみそ》じゃと、お母さんにもきっとお気に召しますわい。」
 運平老はすこぶる真面目である。俊亮は、むず痒《か》ゆそうに頬をゆがめた。
「ところで――」
 と、運平老は、急に思い出したように、うしろの茶棚にのせてあった一枚の葉書をとって、それを俊亮の方にさし出しながら、
「きのう、次郎君がわしにこんな葉書をくれましてな。字はあまり上手でもないようじゃが、書くことが気がきいとりますわい。これには大巻運平も一本参りましてな。」
「へえ――」
 俊亮は、葉書を受取って、すぐそれに眼を走らせた。ペン書きである。恭一にもらった万年筆をつかったものらしい。慣れないせいか、字は、なるほど鉛筆書きの時ほどうまく書けていない。文句にはまずこうあった。
「お祖父さん。こないだは大へんお世話になりました。僕は、剣道を教えてくださるお祖父さんが出来て、うれしくてなりません。このつぎの日曜日も、きっと参りますから、また教えて下さい。」
 俊亮は、そこまで読むと、葉書から眼をはなして、
「へえ――。もうこちらにお邪魔にあがったんですか。」
「この前の土曜に、お芳がつれて来ましてな。一晩泊って行きましたのじゃ。」
「それに、さっそく剣道の稽古までしていただいたんですね。」
「大いにやりましたよ。……じゃが、まあ、葉書を終りまで読んで貰いましょうか。」
 俊亮は読みつづけた。
「しかし、お祖父さん、こんど教わる時には、もう「かあっ、かあっ」とかけ声を出すのはよしたいと思います。お祖父さんが出せとおっしゃっても出しません。それは、昨日から、そんなかけ声を出さなくってもいいようになったからです。こんどの日曜には、もっとほかのかけ声を教えてください。さよなら。」
 俊亮はわけがわからなくて、何度も読みかえした。運平老は、ひとりでにこにこしながら、
「な、どうです。なかなか要領を得とりましょうが。」
「はあ――」
「もうそんなかけ声を出さなくてもよいようになった、という文句には、まさに千|鈞《きん》の重みがありますわい。」
「はあ。――しかし、私には、何のことだか、ちっともわかりませんが――」
「いや、なあるほど。こりゃ、あんたには、ちとわかりかねますかな、はっはっはっ。」
 と、運平老は膝をゆすった。それから、急に真面目な顔をして、
「実を言いますと、わしはお芳を正木さんにお預けしたあと、次郎君との仲がどうだろうかと、そればかりが気になっていましてな。で、お芳に手紙を出して、わしも助太刀をしてやるから一度次郎君をこちらにつれて来い、と申し附けましたのじゃ。ところが、来てみると、二人の仲は案じたほどわるくない。こりゃあお芳にしては上出来じゃ、と思いましたわい。」
「そのことは、私の方にも正木から報《し》らしてもらっていましたので、内心喜んでいたところです。」
「もっとも、これはお芳ひとりではどうにもならんことじゃで、次郎君の心がけがよいからでもありますのじゃ。」
「いや、あいつ、まったく一筋縄《ひとすじなわ》では手におえん子供でして――」
「そう言えば、なるほどそういうところもありますな。じゃが、お芳との仲は、案外うまくいっとりますぞ。そこは、わしがちゃんと睨《にら》んでおきましたのじゃ。お芳ののろまも、こうなると、まんざら捨てたものではありませんな。はっはっはっ。」
 俊亮は挨拶に困っている。
「ところで、わしがひとつ気になりましたのは、次郎君の口から、まだどうしても、母さんという言葉が出ないことでしたのじゃ。あんたは、それはまだ早過ぎる、とおっしゃるかも知れん。じゃが、こんなことは、はじめが大事でしてな。はじめに言いそびれると、あとでは、いよいよむずかしくなりますのじゃ。」
「ごもっともです。」
「それも、いっそ、そんなことが気にならなければ、何でもないようなものじゃが、なかなかそうは行きませんのでな。母さんと呼べないばかりに、さきざきちょっとした用事を言うにも、奥歯に物がはさまったような言葉づかいをしなけりゃならん。一生そんな気まずい思いをしちゃあ、ばかばかしい話ですよ。」
「ごもっとも。」
「そりゃあ、母でもないものを母と呼ばせようとするのが、そもそもの無理じゃで、そんな無理をしないですめば、それにこしたことはない。じゃが、必要があって無理をするからには、思いきりよくやる方がよいと思いますのじゃ。無理というやつは、外科手術のようなもので、用心しすぎると、かえってしくじりますのでな。」
「ごもっとも。」
 俊亮は、ただ「ごもっとも」をくりかえしている。そのうちに、運平老は、次郎の葉書のことなど忘れてしまったかのように、家じゅうにひびきわたるような声で、ひとくさり「なさぬ仲論」を弁じ立てた。
 それによると、なさぬ仲はあくまでもなさぬ仲で、自然の親子ではない。自然の親子でないものに、自然の親子と同じような気持になれと求めるのは、そもそも間違いである。そんな間違った要求をするから、何でもないことまでが、ややこしくなって、かえって二人の仲が他人より浅ましいものになる。それは、ごまかそうとしてもごまかせないものを、強いてごまかそうとして、人間が不純になるからである。何よりもいけないのは、この不純だ。人間が不純でさえなければ、なさぬ仲はなさぬ仲のままで楽しくなれないわけはない、というのである。
 俊亮もこれにはまったく同感だった。しかし、それでは強いて「母さん」と呼ばせなくてもいいことになりはしないか、という気もして、運平老のそれに対する意見を、内心興味をもって待っていた。
 運平老は、しかし、その点になると、論理の筋道を立てる代りに、相変らす外科手術の比喩を用いた。つまり、なさぬ仲は、人間と人間とを外科手術で縫いつけるようなものだから、縫いつけるに必要な手数だけはびくびくしないで、やっておかなけれはならぬ。子供に「母さん」と呼ばせるのも、その手数の一つで、それは世間|体《てい》や何かのためではない。それが手おくれになると、疵《きず》がうまく癒着《ゆちゃく》しない、というのである。
「世間体など、どうでもよいことですよ。外科手術の疵は、どうせかくれませんからな。ただ、わしは、その疵がどんなに大きい疵でも、よく癒着していさえすりゃよい、とそう思いますのじゃ。」
 運平老は、そう言って正月以降考えぬいていたらしい「なさぬ仲論」をやっと終った。
 俊亮は、次郎にとってこれはいいお祖父さんが出来たものだ、と思い、次郎の葉書に、意味はわからないが、何となく愉快な調子が出ているのも、なるほど、という気がした。そうして、もう一度葉書に眼をとおした。
「そこで、次郎君のその葉書じゃが――」
 と、運平老も、やっと葉書のことを思い出したらしく、
「わしは、次郎君に、母さんと呼ぶのを、剣道で仕込んでみたいと思いつきましてな。」
「へえ? 剣道で?」
「そうです、剣道で。……こいつは、自分ながら妙案じゃと思いましたわい。」
 運平老は、そう言って、ひとりで愉快そうに笑った。俊亮は、まるで狐にでもつままれたような顔をしている。
「次郎君なかなか元気者でしてな、竹刀《しない》を握らせると、もう夢中になって打込んでまいりましたわい。ところで、これははじめのうち誰でもそうじゃが、うまく懸声《かけごえ》が出ない。出ても気合がかからない。そこをうまく利用しましてな、口を大きくあけてかあっ[#「かあっ」に傍点]、かあっ[#「かあっ」に傍点]と怒鳴ると気合がかかる、と言ってやりましたのじゃ。」
「へえ――?」
「すると、次郎君、言われたとおりに、かあっ[#「かあっ」に傍点]、かあっ[#「かあっ」に傍点]と叫んで打込んで来る。そのかあっ[#「かあっ」に傍点]という声がうまく出るたびに、わしが、わざとわしの面を打たせてやりますと、次郎君いよいよ調子づきましてな。」
「へえ――」
「次郎君は案外素直な子供ですぞ。」
 俊亮は、眼をぱちくりさせた。
「素直じゃから、かあっ[#「かあっ」に傍点]と気合をかけさえすれば、面がとれると思いこんで、一所懸命に打込んでまいりますのじゃ。」
「なるほど。」
「それで、うんと汗をかきましてな、それからいっしょに風呂に入りましたのじゃ。すると、次郎君、風呂小屋の中でも、ときどき思い出しては両手をふりあげて打込みの真似をする。相変らずかあっ[#「かあっ」に傍点]、かあっ[#「かあっ」に傍点]と気合をかけましてな。」
「へえ――」
「そこをすかさず、わしが、小声でさん[#「さん」に傍点]とあとをつけましたのじゃ、そのたんびに。」
「なるほど。」
 俊亮は、しかし、まだちっとも、なるほどだという顔をしていない。
「次郎君も、最初のうちはそれに気がつかないでいたようじゃが、何度もやっているうちに、けげんそうな眼をしてわしの顔を見ましてな。それから、しばらく突っ立って何か考えるようなふうでいましたが、急に、ああそうか、と言って恥ずかしそうに横を向きましたわい。」
「いや、なるほど。」と、俊亮は笑いながら、
「それで、風呂を出たあと、うまく母さんと言いましたか。」
「いいや、なかなか言いません。そりゃあ、そう急に言うわけがありませんわい。わしも、そんなに急に言わせるつもりもありませんでしてな。わしは、しかし、次郎君は剣道が好きじゃと見込みまして、それに望みをかけましたのじゃ。」
「はあ――」
「剣道が好きじゃとすると、またここに来て稽古がしてみたくなる。稽古がしてみたくなると、きっとかあっ[#「かあっ」に傍点]という懸声のことを思い出す。ついでに風呂小屋でのさん[#「さん」に傍点]を思い出す。さあ、そうなると、剣道をよすか、思いきって母さんと言うか、二つに一つじゃが、そこは次郎君が自分で考えることになりますわい。それも、次郎君が、母さんと呼ぶのを心から嫌っておれば話になりませんがな。」
「なるほど。」
 俊亮は、今度はいくぶん、なるほどという顔をした。
「ところで、どうです。この葉書は? わしもこんなに早く計画が図に当るとは思いませんでしたわい。はつはっはっ。」
 運
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