平老はいかにも愉快そうに、からだをそらして笑った。
 俊亮は、しかし、笑わなかった。彼は、むしろ涙ぐんでいるようにさえ見えた。そして握っていた次郎の葉書に、じっと眼をおとしながら、いかにも感慨深そうに言った。
「次郎も、すると、まだ子供らしいところがいくらかはありますかね。」
「そりゃ、ありますとも。次郎君はやっぱり子供ですぞ。はっはっはっ。」
 運平老はもう一度大きく笑った。
 俊亮も微笑した。しかし彼は、鼻の奥に甘酸っぱいものを感じて、眼を伏せたままだった。
 運平老は、それから、襖の向こうにいた夫人を呼んで、湯豆腐と酒とを用意させた。まだ夕食には早い時刻だったし、俊亮はそれを辞退して帰ろうとしたが、運平老が、息子の徹太郎ももう帰るころだから、ぜひ会っておいてくれと言うので、腰をおちつけることにした。
 大巻夫人は、でっぷりと肥ったお婆さんだった。俊亮も、口をきくのは今日がはじめてだったが、無口なわりに人が好さそうで、いかにもお芳の母らしいにぶさがあった。運平老が陶《とう》然となって、
「お芳も、これでいよいよ落ちつくところがきまって、安心じゃな、婆さん。」と言うと、
「どうか末永くお頼みいたします、徹太郎の嫁をもらうにも、あれが居りましては、何かと工合が悪うございましてな。」
 と、正直なところを言って、俊亮の前に丁寧に頭をさげた。その様子が、俊亮をほろりとさせた。
 徹太郎が帰って来たのは、もう暗くなるころだった。彼は師範出の秀才で、附属の訓導をつとめて居り、一里ほどのところを自宅から通っている。今年ちょうど三十歳で、眼鼻立のいかついところが、運平老そっくりである。背も高い。俊亮との初対面の挨拶も、きびきびしていて気持がよかった。
「次郎君のことは、父からいろいろ聞いています。こないだは、あいにく学校の用件で出張していたものですから、お会い出来なくて残念でした。これから僕も出来るだけお相手をしてみたいと思っています。中学校の入学試験も、もう間もなくですが、それがすみましたら、ひとつ山登りにでもおつれしましょうかね。」
 彼は俊亮に酒をすすめながら、しきりに次郎のことを話題にした。
 俊亮もつい気持よく盃を重ねて、九時近くに大巻の家を辞《じ》した。彼は自転車で寒い風を切りながら、きょうの訪問が決して無駄ではなかったと思い、重荷をひとつおろしたような気がした。が、また、一方では、何ひとついい条件なしにお芳を迎えなければならない家庭の事情を思って、いよいよ気が重くなるのであった。

    六 卑怯者

 三月にはいると、まもなく中学校の入学試験だった。次郎たちの学校からは、昨年不合格だった源次たちの仲間を加えて、都合十五名が願書を提出した。
 毎年の例で、みんなは一名の先生につきそわれて、試験のはじまる二日まえから、西福寺という町のお寺に合宿することになった。二日もまえから合宿をはじめるのは、町の地理や、中学校の建物の様子などに、まえもって、いくらかでも慣れさしておくことが、みんなの試験度胸をつくるのに必要だと思われたからである。しかし、みんなとしては、そんなことよりも、一日も早く賑やかな町に行き、そこでいっしょに寝泊り出来るということが、ただわけもなく楽しかった。――一般にこの辺の児童は、入学試験に対しては割合にのんきで、競争意識で神経をいら立たせる、といったようなことはあまりなかったのである。
 附添いの先生は、次郎や竜一たちを四年から受持ってくれていた権田原先生だった。
 この先生は、児童たちが何かいたずらでもやっているのを見つけると、その大きな眼をむいて拳固《げんこ》をふりかざしておきながら、すぐその手でやさしく児童たちの頭をなで、「これから気をつけるんだぞ。」と言って、それっきり、けろりとなるといったふうな飄然《ひょうぜん》としたなかに、いかにも温情のあふれている先生で、年歳《とし》はもう四十を越していたが、師範を出ていないせいか、学校での席次は、まだ四席かそこいらのところだった。毛むくじゃらな、まんまるい顔を、羊羹色《ようかんいろ》の制服の上にとぼけたようにのっけて、天井を見ながらのっそりと教壇に上って来るくせがあったが、その様子が、不思議に児童たちの気持を真面目にもし、またなごやかにもするのだった。
 この先生が附添いときまってからは、合宿はみんなにとっていよいよ輝かしいものに思われ、彼らはよるとさわるとその話をして、町に行く日を首をながくして待っていた。
 ただひとり楽しめなかったのは次郎だった。彼は、むろん、合宿に加わりたいのが精いっぱいで、町に自分の家があるのがうらめしい気にさえなり、
(先生の方で、みんなを合宿させることにきめてくれるといいが――)
 と、心のうちで祈ったりしていた。しかし、権田原先生は、自分が附添いときまった日に、みんなを集めて合宿に必要な諸注意や、費用のことなどを話したあと、次郎の頭をなでながら言った。
「本田は合宿の面倒がなくていいね。だが、試験の時間におくれんように気をつけるんだぞ。いずれ先生が君のうちに寄って、よく打合わせておくが。」
 次郎はがっかりした。それでも、彼は、正木のお祖父さんが、「源次は本田にお世話になるより、合宿の方で先生に面倒を見ていただく方が安心じゃ」と言ったのを知っていたので、自分から願いさえすれば、源次と同じにしてもらえそうな気もして、それを言い出す機会をねらっていた。しかしそんな機会はとうとう見つからなかった。お祖父さんも、お祖母さんも、試験の話にさえなると、「このごろは恭一が、次郎をきっと試験にうかるようにしてやると、張り切って待っているそうだ。」といったような話をして、次郎を励ますことばかりに熱心になるのだった。
 次郎は、合宿が駄目なら、源次か竜一のうち、せめて一人だけでも町の自分の家に泊ってくれればいいと思って、そっと二人にそれをすすめてみだ。源次は、しかし、即座に「いやだ」と答えた。そして、
「お祖父さんだって、僕は先生のそばにいる方がいいって言ってるじゃないか。」
 と、いかにもお祖父さんが自分の肩をもって、そんなことを言いでもしたかのような口振りだった。
 竜一の方は、次郎の家に泊るのが、まんざらいやでもなさそうだったが、その場でははっきりした返事もせず、翌日になって、
「うちでいけないって言うよ。」
 と、気の毒そうにことわった。
 次郎は、そうなると、いよいよみんなにのけ者にでもされたような気になり、幼いころから本田の家で味わって来た不快な感情が、どこからともなく甦って来て、誰かが合宿の話でもし出すと、つい荒っぽいことを言ったり、皮肉な態度に出たりしたくなるのだった。――過去の深刻な運命というものは、それに似た新しい小さな運命をあざけるとばかりは限らない。それは、ちょうど骨の髄《ずい》をいためた古疵と同じように、ちょっとした寒さにもうずき出すことがあるものなのである。
 町に出て行くのは、次郎もみんなといっしょだった。その日、みんなは、いつもの朝礼の時間に学校にあつまり、全校児童のまえで、校長先生からの激励の辞をうけ、万歳の声におくられて、権田原先生を先頭に、寒い春風のなかを粛々《しゅくしゅく》として校庭を出た。
 校門を出て五六分も行くと、天満宮の前だった。
 権田原先生は、そこでみんなにひとりびとり拝殿の鈴を鳴らさした。それから、また列を作って歩き出したが、しばらくたつと、みんなはもうわいわいはしゃぎ出し、列もいつの間にか乱れて、道いっぱいにひろがり、先頭も後尾もないようになった。先生は、それでも何とも言わないで、例のとおり、ふとった頸の肉を詰襟のうえにたるまして、のそのそと歩いていた。が、だしぬけに立ちどまって、うしろをふり向いたかと思うと、
「こらあっ!」
 と、破鐘《われがね》のような声でどなりつけ、にぎり拳を高くふりあげた。
 みんなは、一瞬ぴたりと足をとめて、先生を見た。しかし、誰も心から恐怖を感じているようには見えなかった。先生のにぎり拳はいかにも豪壮だったが、その眼は微笑をふくんで、みんなの頭ごしにずっと遠くの方を見ているように思えたのである。
 先生は言った。
「勝手に列をくずしたり、おしゃべりをしたりするのは卑怯《ひきょう》だぞ。先生の眼はうしろにはついとらんからな。」
 そして、そう言ってしまうと、すぐまたくるりと向きをかえて、のそのそと歩き出した。みんなは、自分たちで、校庭を出た時のようにきちんと列を正し、しずかにそのあとについた。が、それで一丁ほども歩いたかと思うと、先生は、今度は、前を向いたまま、弁当をぶらさげていた左手を高くふりあげて言った。
「うむ、それでいい、もうそれでおしゃべりをはじめても構わん。ついでに列をくずすことも許してやろう。別れっ。みんな先生より先に行くんだ。いつまでも先生のあとにばかりついているような人間は偉くなれん。試験も落第だ。」
 みんなは、いっせいにわっとわめいて、先生を半丁ほども追いぬいた。中には一丁以上も追いぬいたものがあった。次郎もみんなといっしょに先に出るには出たが、しかし、みんなのなかでは、彼が一番あとで、先生との距離は五間とははなれていなかった。彼は、みんなといっしょになってはしゃぐ気がしなかったのである。
 おおかた十四五分間も、彼は誰とも口をきかないで歩いた。まだ芽をふかない道ばたの櫨《はぜ》の木から一羽の大きな鴉《からす》が、溜池の向こうの麦畑に舞いおりて、首をかしげながらこちらを見ているのが、妙に彼の心をひいた。彼は、その鴉を見た眼で、ひょいとうしろをふりかえって見た。すると、権田原先生もその鴉を見ていた。しかし、次の瞬間には、二人の眼がぶっつかった。先生の眼は無表情なような、それでいて次郎の心を捉えずにはおかない、深い眼だった。
 次郎は、何かきまりわるいような気がして、いそいで正面を見た。すると先生が言った。
「本田、お前は先生といっしょに歩け。」
 二人はすぐ並んで歩き出した。しかし、どちらも、しばらくは口をきかなかった。
「君は中学校にはいると、いよいよ本田の人になるんだね。」
 五六分もたってから、先生がやっと言った。
 次郎は、答える代りにそっと先生を見上げた。すると先生がまた言った。
「君が正木のお祖父さんのうちに行ってから、もうどのくらいになるかね。」
「四年生からです。」
 次郎は今度ははっきり答えた。しかし彼の眼は自分の足先ばかり見ていた。
「ふむ、そうだったね。先生が君らの受持になった年の夏からだったね。……ふむ。」
 次郎は、正木のお祖父さんが、その頃めずらしく学校にやって来て、権田原先生と教員室で何かしきりに話しあっていたことがあったのを思い起した。
「ふむ、するともうあれから二年半になるんか、ふむ」
 先生は、それから、何度も思い出したように、「ふむ」をくりかえした。次郎は、その「ふむ」を聞きながら、いまに先生が、亡くなった母や、今度の母のことを言い出しそうな気がして、妙に緊張した気分になっていた。先生は、しかし、とうとうそれには触《ふ》れなかった。
「先生、合宿ってどんなことをするんですか?」
 かなり沈默がつづいたあと、今度は次郎がたずねた。
「合宿か――」
 と、権田原先生はちょっと言葉をきって、
「合宿は何でもないさ、いっしょに食って寝るだけだよ。」
 次郎は、先生がわざとそんなふうに言っているような気がして、何か物足りなかった。
「合宿なんかより、自分の家《うち》がいいさ。」
 権田原先生は、しばらくして、またぽつりとそう言った。次郎は、しかし、それも先生の本心から出た言葉でないように思って淋しかった。
 ほかの児童たちは、もうその頃には、めいめい一本ずつの竹ぎれや棒ぎれを握って、ちゃんばらの真似をしたり、並木の幹や枝をなぐりつけたりしながら、歩いていた。先生は、それに気がつくと、だしぬけに例のどら声をはりあげて怒鳴った。
「おうい、默って立っている木をなぐるのは卑怯だぞうっ。」
「卑怯だぞ」というの
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