持に同情してくれているのが、妙に嬉しかった。
「それに――」
と、お延は、次郎の手をなでながら、
「もし次郎ちゃんが、嘘でもいいから、今日から思いきってお母さんと呼んであげたら、どんなにお喜びでしょう。あの方はね、そりゃお気の毒な方よ、ちょうど次郎ちゃんと俊ちゃんぐらいな男のお子さんがお二人あったんだけれど、お二人とも、お亡くなりになってしまったんだってさ。だから、誰かにお母さんて呼ばれてみたいのよ。」
次郎は、はっとしたように、伏せていた眼をあげて、お延を見た。
「だのに、次郎ちゃんが寄りつきもしないようだと、どんなにあの方、がっかりなさるでしょう。……それにね、次郎ちゃん、あの方はもう正木の人になっておしまいになったんだよ。お祖父さんと、お祖母さんとでね、亡くなったお母さんの代りをしていただく方なんだから、そうしてもらった方がいいっておっしゃってね。わからない? わかるでしょう。」
次郎はうなずいた。
「だから、もしかして、あの方が次郎ちゃんとこに行けなくなったら、そりゃ大変なことになるのよ。だいいち、あの方どこにどうしていていいか、わからなくなっておしまいになるわ。せっかく、次郎ちゃんのために来てくださろうとおっしゃっているのに、お気の毒じゃないの? お祖父さんや、お祖母さんだって、もしかそんなことにでもなったら、どんなにおこまりでしょう。」
次郎は、もう、世間というものがまるでわからない子供ではなかった。むしろ、そうしたことでは、兄弟や従兄弟たちの誰よりも、ませているともいえるのだった。それに、彼の持ちまえの侠気《きょうき》というか、功名心というか、そうしたものが、彼自身でも気づかない間に、そろそろと頭をもたげていた。
「僕、じゃあ、母さんって言うよ。」
彼はいかにも無雑作《むぞうさ》に答えた。しかし、答えてしまって妙な味気《あじけ》なさを覚えた。それはちょうど精いっぱい力を入れて角力をとっている最中、何かのはずみで、がくりと膝をついたような気持だった。
お延には、次郎の返事があまりにだしぬけだった。彼女は、もっと何か言うつもりでいたらしかったが、一瞬、あっけにとられたように眼を見はった。それから膝をのり出し、次郎の顔を下からのぞくようにして、
「そう? ほんとう?」
と、念を押した。
次郎は念を押されると、何だかあともどりしたくなって来た。そのくせ、首を強く縦《たて》に動かした。そして、お延がまだ疑わしそうな眼をして、自分の顔をのぞいているのを見ると、
「ほんとうさ。」
と、おこったように言って、ぷいと座を立った。
「じゃあ、お祝いに、叔母さんがこれから御馳走をこさえるわ。」
お延は、追っかけるようにそう言って、お針の道具をしまいはじめた。
次郎は、ふり向きもしないで土間におり、門口を出たが、足はひとりでに墓地に向かっていた。
墓地をかこむ女竹《めだけ》林は、暮近い風に吹かれて、さむざむと鳴っていた。次郎は、母の墓がきょうは妙に寄りつきにくいような気がして、しばらくは、五六間もはなれたところから、じっとそれを見つめていた。
そのうち、彼はふと、去年の夏休みに、恭一と俊三とが久方ぶりに母の見舞に来ていたのを、本田のお祖母さんが、いろいろと口実《こうじつ》を設けてつれ帰った時のことを思い起こした。
彼は、恭一たちが帰ったあと、母の眼尻から、彼の全く予期しなかったものが真珠のようにこぼれ落ちたのを、今でもはっきり覚えている。ことに、うるんだ眼で微笑しながら、「次郎だけはいつもあたしのそばにいてもらえるわね」と言った、あの悲しい言葉は、忘れようとしても忘れられない言葉だった。
(次郎だけは――次郎だけは――)
と、彼は何度も心の中で母の言葉をくりかえした。そして、ひきつけられるように墓に近づいて行った。
墓はまだ土饅頭《どまんじゅう》のままだったが、ところどころに、しめった落葉がぴったりとくっついていた。彼は手で一枚一枚それをはがして行くうちに、急に悲しさがこみあげて来た。
彼はしゃがんで掌《て》を合わせ、額《ひたい》をその上にのせて眼をつぶった。そして、このごろ忘れがちになっていた母の顔を、一心に思い浮かべようとした。
しかし、彼の眼にすぐ浮かんで来たものは、母の顔ではなくて、「お芳さん」の顔だった。えくぼがはっきり見える。彼はそれを払いのけるように頭をふった。そして、小声で、
「母さん――母さん――」
と呼んでみた。しかし母の顔はどうしてもはっきり浮かんで来ない。浮かんで来たと思った母の顔は、いつも「お芳さん」の幅の広い顔にかくれてぼやけていた。
彼は、もう、悲しいというよりは、何か恐ろしいような気になって来た。そして、手の甲でやけに眼をこすりながら立ち上ったが、一瞬、土饅頭に視線を落したあと、逃げるように墓地の入口に向かって走り出した。
*
夕飯には、お芳も台所に来て、みんなといっしょにちゃぶ台についた。ご馳走は大したこともなかったが、赤飯が炊《た》いてあり、酢《す》のものがついていた。次郎はお芳とならんで坐らされたが、始終むっつりしていた。
お芳の方は、はた目には物足りないほど平気な顔をしていた。強いて次郎にちやほやするのでもなく、さればといって、次郎のむっつりしているのを不快に思うようなふうもなかった。彼女は、ただ、自分の食べるものだけを食べてさえいればいい、といったふうに、はた目には見えた。
お祖母さんとお延とが、おりおり、気をきかして、
「次郎のお母さん、これいかが。」
と、丼のものなどを二人の前に押しやったりした。お芳は、それでも、
「はい、ありがとう。」
と言ったきり、次郎の皿にそれをわけてやろうとする気《け》ぶりも見せなかった。
次郎には、丼のものはどうでもよかった。彼は、しかし、「次郎のお母さん」という言葉をきくごとに、従兄弟たちの視線を顔いっぱいに感じて、気が重くなり、物を噛むのでさえおっくうになった。
夕食後、「次郎のお母さんのお土産」だといって、みんなに煎餅《せんべい》がふるまわれた。大人たちも子供たちも茶の間に集まって、それを食べた。
お祖父さんは朝から留守だったが、ちょうどその最中に帰って来た。そして、
「ほう、にぎやかだのう。」
と、みんなのなかに、次郎とお芳の顔をさがしながら、座敷の方に行った。お祖母さんとお芳とがすぐそのあとについた。
しばらくすると、お芳がまた茶の間の入口に来て、例のえくぼを見せながら、
「次郎ちゃん、ちょいと。」
と手招《てまね》きした。
次郎は相変らずむっつりしていたが、呼ばれるままに立っていった。するとお芳は、襖のかげの小暗いところで、包紙にくるんだ平たい箱を次郎に渡しながら言った。
「これはね、次郎ちゃんへのお土産。きょうお祖父さんが町にいらしったので、お頼みして買って来ていただいたの。」
次郎は、顔を真赧《まっか》にして、茶の間に帰った。お芳もそのあとからついて来た。みんなの視線がいっせいに次郎のさげているお土産の包にそそがれた。次郎は、もとの場所に坐るには坐ったが、その包の置き場に困って、膝にのせたり、尻のあたりに置いたりしていた。
「次郎ちゃん、あけて見せろよ。」
源次が言った。次郎はすぐそれを源次の前につき出した。
源次はさっさと包の紐を解いた。中は文房具の組合わせだった。赤、黄、青、金、緑などの色が眩《まば》ゆくみんなの顔を射《い》た。
「いいなあ。」
誠吉が、心から羨ましそうに、まず言った。それから、下男や婢《おんな》たちまでがいっしょになって、「くずすのは惜しい」とか「そのまま飾物にしてもいい」とか、「これだけあったら何年もつかえるだろう」とか、口々にほめそやした。
次郎も嬉しくないことはなかった。しかし、はしゃぐ気にはなれなかった。彼は、お延と何度も視線をぶっつけあっては、顔を伏せた。そして、お芳がほとんど自分の方に注意を向けていないのを、不思議にも思い、気安くも感じた。
間もなく、座敷からお祖父さんとお祖母さんとが出て来た。お祖父さんはにこにこしながら、言った。
「次郎にはちと上等すぎたようじゃのう。」
すると源次が、
「僕のにちょうどいいや。」
それで、みんながどっと笑い出した。次郎も思わず笑った。
「次郎、誰も知らないところにしまっておかないと、みんなにとられてしまうよ。」
お祖母さんが言った。それでまたみんなが笑った。次郎の気持は、いつとはなしに少しずつほぐれて行くようだった。
寝る時刻になった。
次郎の寝床は、従兄弟たちとはべつに、座敷の次の間に、お芳のとならべて敷かれてあった。次郎はそれを知った時には、きまりが悪いような、淋しいような、変な気がしたが、何も言わずに、お芳よりさきに、ひとりで床についた。
しばらくは眼がさえて寝つかれなかった。それでも、お芳がいつ寝たのかは、ちっとも知らないで眠っていた。
翌朝は、いつもより一時間あまりも早く眼をさました。お芳は、もう起きあがって帯をしめているところだったが、次郎が眼をさましたのを知ると、例の大きなえくぼを見せながら言った。
「次郎ちゃんは、ゆうべ夢を見たんでしょう。」
「ううん。」
「でも、何度も寝言を言っていたのよ。」
次郎は何だか気がかりだった。しかし、どんな寝言だったかを問いかえしてみるだけの楽な気持には、まだなっていなかった。するとお芳が、またえくぼを見せながら、
「どんな寝言だったと思うの。」
「わかんないなあ。」
「教えてあげましょうか。」
「ええ。」
「それはね――」
とお芳は少し間をおいて、
「母さん、母さんって。――」
次郎は、はっとしてお芳を見た。お芳のえくぼは、まだ消えていなかった。しかし、次郎の眼には、そのえくぼが妙にゆがんでいるように見えた。
次郎は、いそいでふとんを頭からかぶってしまった。するとお芳が枕元によって来て、
「次郎ちゃんは、きっと亡くなったお母さんを呼んでいたのね。でも、あたしもうれしかったわ。」
次郎はふとんの中で、思わず身をちぢめた。そして、心のうちで、
「うそつけ!」
と叫んでみた。しかしそれはまるで力のない叫びだった。彼は生まれてこのかた感じたことのない妙な感じに包まれていた。それは嬉しいような、それでいて腹が立つような感じだった。
(どうして母さんと呼ばなければならないのだろう。もし叔母さんと呼んでもいいのなら、どんなにでも気安く話が出来るのに。)
彼はそんな気がしていた。そして、いつまでもふとんから顔を出そうとしなかった。
五 外科手術
「実は、ぶちまけたところ、そんなような事情なんです。……むろん、正木の方から、一応申上げたはすだと存じますが、私からじかに申上げてみたら、また、いくぶんお感じの上でちがう点もあろうかと存じまして……」
と、俊亮は、まるっこい膝を、手のひらでこすりこすり言った。
「なるほど、それでわざわざお出でくだすったとおっしゃるのか。じゃが、正木さんから伺ったところと、ちょっともちがってはいませんな。」
大巻運平老は、とぼけたようにそう答えて、顎鬚《あごひげ》をぐいとひっばった。その大きな眼玉は、天井を見ている。あまり愉快そうな表情ではない。――運平老は、お芳の父で、次郎が天狗の面に似ていると思っている人なのである。剣道に自信があり、裏の土蔵を道場代りにして、村の青年たちに、おりおり稽古をつけてやっている。鉄庵と号して画も描く。四君子のほかに、鹿の密画が得意である。
俊亮は、運平老の気持をはかりかねて、用心ぶかくその顔色をうかがった。すると運平老は、急に脊骨《せぼね》を真直にし、天井に注いでいた視線を、射るように俊亮の顔に転じて、かみつくように言った。
「あんたは、つまるところ、今度の話を取消しにおいでになったわけじゃな。」
「いや、決してそんなわけでは……」
「なるほど、あんたの口から取消そうとはおっしゃらん。じゃが、その代りに、わしに取消させようというのが、あん
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