人の顔を注意ぶかく観察した。それは幅の広い、ぼやけたような顔だった。ただ、笑うと右の頬に大きな笑くばが出来るのが、はっきり次郎の眼にうつった。
 次郎は、その顔からべつに不快な感じはうけなかった。しかし、記憶に残っている母の引きしまった顔とくらべて、何だか気のぬけた顔だと思った。
 俊亮は、座敷に残ったまま、二人を送って出なかった。そして、それから老夫婦と二十分ほど何か話したあと、帰り支度をはじめた。次郎は彼の顔にも注意を怠らなかったが、別にいつもと変った様子がなかった。
「次郎はまだ起きていたのか。」
 あっさりそう言って、上り框《がまち》をおりた父の様子には、次郎だけが味わいうるいつもの親しさがあった。次郎は何か知ら安心したような気持になった。
 俊亮は土間で自転車に燈《ひ》を入れながら、お祖母さんに向かって言った。
「急にっていうわけにも行きますまいが、いずれ母の考えもききました上で、手紙ででもご返事いたしますから。」
 次郎はそれでまた変な気になった。
 彼は床にはいってからも、ぼやけたような顔だと思った女の顔を、案外はっきり思いうかべた。そして何度もねがえりをうった。

    四 寝言

 正月も終りに近いころだった。次郎が学校から帰って来ると、茶の間でお針をしていたお延が、いかにも意味ありげな微笑をもらしながら、言った。
「お帰り。……今日は次郎ちゃんに嬉しいことがあるのよ。」
 次郎は、土間に突っ立ったまま、きょとんとしてお延の顔を見ていたが、
「はやくお座敷に行ってごらん。お祖母さんが待っていらっしゃるから。」
 と、お延にせき立てられ、あわてたようにカバンを茶の間に放り出して、座敷の方に走って行った。
「お祖母さん、ただいま。」
 次郎は元気よく座敷の襖をあけた。が、その瞬間、彼は全く予期しなかった人の眼にぶっつかって、そのまま立ちすくんでしまった。――座敷には、こないだの女の人が、お祖母さんと火鉢を中にして坐っていたのである。
「お帰り。どうしたのだえ、そんなところに突っ立って。」
 お祖母さんがにこにこしながら言った。次郎があわてて襖《ふすま》をしめようとすると、
「おはいりよ。そして、お辞儀をするんですよ。」
 次郎は、敷居に坐って、お辞儀をした。
「まあ、おかしな子だね。いつもにも似合わない。ちゃんと中にはいって、お辞儀をするんだよ。」
 次郎は、しぶしぶ膝をにじらせて敷居の内側にはいった。そしてもう一度お辞儀をしたが、それをすますと、急いで立って行こうとした。
「ここにいてもいいんだよ。お客様ではないのだから。……もっと火鉢のそばにおより。」
 お祖母さんは、そう言って立ち上り、自分で次郎のうしろの襖をしめた。次郎は監禁《かんきん》でもされたかのように、窮屈《きゅうくつ》そうに坐っていた。
「どうしたのだえ、次郎。お客様ではないと言ってるのに。……この方はね……」
 と、お祖母さんは、もとの座にかえりながら、
「この方は、これからうちの人になっていただくんだから、そんなに窮屈にしないでもいいのだよ。そばによってお菓子でもおねだり。」
 すると女の人がはじめて口をきいた。
「次郎ちゃん、こちらにいらっしゃい。お菓子あげますわ。」
 何だか張りのない声だった。彼女は、そう言いながら、お菓子鉢から丸芳露《まるぼうろ》を一つ箸にはさんで次郎の方に差し出した。
 次郎は、しかし、手を出さなかった。
「おきらい?」
 次郎は、伏せていた眼をあげて、ちらと相手の顔を見た。相手は笑っていた。右頬の笑くぼがこないだ見た時よりも、一層大きく見える。ふっくらした頬の形は、どこかに春子を思わせるものがあった。しかし吸いつけられるような感じには、ちっともなれなかった。
「おいただきなさいよ。」
 お祖母さんがうながした。それでも次郎は手を出そうとしない。女の人は箸にはさんだ丸芳露を、ちょっともちあつかっている。
「まあ、ほんとにどうしたというんだね。いつもはお菓子に眼がないくせに。……くださるものは、すなおにいただくものですよ。」
 次郎は、お祖母さんにそう言われると、だしぬけに手をつき出して、丸芳露を受取ったが、いかにも厄介な預り物でもしたように、すぐそれを膝の上においた。
「はじめて、お目にかかるものですから、きまりが悪いのですよ。」
 と、お祖母さんは取りなすように言って、
「次郎、おたべよ、……お芳さんもひとついかが。次郎が一人ではきまりが悪そうだから、あたしたちもお相伴《しょうばん》いたしましょうよ。」
「ええ、いただきますわ。」
 二人は次郎の様子に注意しながら、丸芳露をたべだした。次郎は、しかし、食べようとしない。
 彼は「お芳さん」という女の名を何度も心の中でくりかえした。そして、さっきお祖母さんが、
「これからうちの人になっていただくんだから――」と言ったのを思いだして、変だなあと思った。
 誰もしばらく物を言わない。二人がむしゃむしゃ口を動かしている音だけが聞える。
 次郎は畳のうえに落していた眼をあげて、もう一度、そおっとお芳の顔をぬすみ見た。ほんの一瞬ではあったが、相手が都合よく彼の方を見ていなかったので、かなりこまかに観察することが出来た。下唇が少し突き出ている。顎の骨も、肉で円味を帯びてはいるが、並はずれて大きい。その唇と顎とが盛んに活動している様子は、次郎の眼にあまり上品には映らなかった。
「たべたくないのかえ。」
 お祖母さんがもどかしそうに言った。
「ううん」
「じゃあ、おたべよ。」
 次郎はやっと丸芳露を口にもって行った。しかし、たべだすと、またたくうちに平らげてしまった。
「もう一つあげましょうね。」
 お芳が、丸芳露を箸ではさみながら言った。次郎は返事をしなかったが、差し出されると、今度はすぐ受取って、ぱくぱく食べ出した。
 お祖母さんとお芳とがいっしょに笑い出した。
「さあ、もうきまり悪くなんかなくなったんだろう。もっとそばにおより。」
 お祖母さんが火鉢を押し出すようにして言った。
 次郎の気持は、しかし、まだちっとも落ちついてはいなかった。彼は、一刻も早く部屋を出て行きたいと思った。
「僕、宿題があるんだけれど――」
 彼はとうとうまた嘘を言った。が、この時は不思議に気がとがめなかった。
「そう?」
 と、お祖母さんはちょっと思案してから、
「じゃあ、宿題をすましたら、すぐまたおいでよ。お話があるんだから。」
 次郎は、お話があると言われたのが気がかりだったが、それでも、何かほっとした気持になって、座敷を出た。
 茶の間には、お延が微笑しながら彼を待っていた。
「次郎ちゃん、どうだったの、いいことがあったでしょう?」
 次郎はむっつりして、お延の顔を見た。そして、返事をしないで、放り出しておいたカバンを乱暴にひきずりながら、二階の方に行きかけた。
 お延の顔からは、すぐ微笑が消えた。
「どうしたの、次郎ちゃん。」
 彼女は縫物をやめ、次郎のまえに立ちふさがるようにして、その肩をつかまえた。
「まあ、ここにお坐りよ。」
 次郎はしぶしぶ坐った。しかし顔はそっぽを向いている。
「どうしたのよ、次郎ちゃん。何かいやなことがあったの。叱られた?」
 次郎はそれでも默っている。
「まあ、おかしな次郎ちゃん。この叔母さんにかくすことなんかありゃしないじゃないの。」
 すると、次郎は急にお延の顔をまともに見ながら、
「お芳さんって、どこの人?」
 お延は、ちょっとあきれたような顔をした。が、すぐわざとのように笑顔をつくって、
「まあ、お芳さんなんて、駄目よ、そんなふうに言っちゃあ。」
「どうして?」
「どうしてって、お祖母さんは何ともおっしゃらなかったの。」
「言ったよ。これからうちの人になるんだって。」
 お延はちょっと考えてから、
「そう? いいわね。うちの人になっていただいて。」
「うちってどこ?」
「うちはうちさ。」
「ここのうち?」
「そうよ。」
「どうしてうちの人になるの。」
「さあ、どうしてだか、次郎ちゃんにわからない?」
 お延は探るように次郎の眼を見た。
「うちの何になるの?」
「あたしのお姉さん。……あたしより年はおわかいのだけれど、お姉さんになっていただくの。」
 お延の姉――亡くなった母――と、次郎の頭は敏捷《びんしょう》に仂いた。もう何もかもはっきりした。彼は、しかし亡くなった母の代りに、いま座敷にいる「お芳さん」を「母さん」と呼ぶ気にはむろんなれなかった。
「じゃあ、僕、あの人を何て言えばいいの、やっぱり叔母さん?」
「そうね――」
 と、お延はちょっと考えていたが、すぐ思い切ったように、
「叔母さんでもいけないわ。――ほんとはね、次郎ちゃん、あの方は次郎ちゃんのお母さんになっていただく方なの。あとでお祖母さんから次郎ちゃんに、よくお話があるだろうと思うけれど。……」
 お延はそう言って次郎の顔をうかがった。
 次郎は、しかし、もうちっとも驚いてはいなかった。また、そう言われたために、まえよりも不機嫌になったようにも見えなかった。彼はただ考えぶかそうな眼をして、じっとお延の顔を見つめていた。
「ね、それでわかったでしょう?――」
 と、お延は、いくらか安心したような、それでいて一層不安なような顔をしながら、
「だから、叔母さんなんて言ったら、可笑しいわ。今のうちは叔母さんでも構わないようなものだけれど、今度いよいよお母さんになっていただいた時に、すぐこまるでしょう。だから、はじめっから、お母さんって言う方がいいわ。」
 次郎は、あらためて「お芳さん」の顔を思いうかべてみた。しかし、その顔が母らしい顔だとはどうしても思えなかった。
「恥かしがったりして、はじめにぐずぐずすると、あとでよけい言いにくくなるのよ。きょうから思いきってお母さんって言ったら、どう?」
「だって――」
 と、次郎は、火鉢にさしてあった焼鏝《やきごて》を灰の中でぐるぐるまわしながら、
「だって、母さんのようじゃ、ちっともないんだもの。」
「そりゃあ、はじめてお目にかかったばかりなんだから、そうだろうともさ。だけど、きっと次郎ちゃんを可愛がってくださるわ。次郎ちゃんのために来ていただいたんだもの。」
「僕、もう、お母さんなんか、なくてもいいんだがなあ。」
 次郎は歎息するように言った。お延はしばらくじっと次郎の顔を見ていたが、
「でも、もう間もなくよ、次郎ちゃんが町に帰るのは。……町にかえったら、ひとりで淋しかあない?」
「町にはお父さんがいるからいいや、それに恭ちゃんや、俊ちゃんだって、このごろ仲よく遊んでくれるんだもの。」
 彼は、その時、万年筆のことを思い出していたのである。
「だけど、女の人はお祖母さんだけなんでしょう。お祖母さんだけだと――」
 お延は言いかけて、口をつぐんだ。そしてしばらく考えたあと、急にお針の道具を片方に押しやって、次郎の皹《ひび》だらけの手をにぎりながら、
「ねえ、次郎ちゃん、お父さんはね、次郎ちゃんが可愛いばっかりに、お母さんをお迎えになるのよ。だから、もし次郎ちゃんが、どうしてもお母さんがいらないってお言いなら、お父さんは無理をしてもお止しになると思うわ。だけど、どう? ほんとうにいらない? 町に帰っても大丈夫? 女の人、お祖母さんだけでもいいの?」
 次郎はだまりこんだ。それは、しかし、町での生活が心配だからではなかった。正木の老夫婦と、父とが、自分のために考えてくれたことを、ぶちこわしてしまうのが、何となく大へんなことのように思えて来たからである。
「そりゃあ、次郎ちゃんがどんな気持だか、この叔母さんにもよくわかるわ――」
 と、お延は、あたりを憚《はばか》るように声をおとして、
「誠吉のように、この家で生れてさえ、まだあんなだからね。何といったって他人だもの、そりゃあほんとうの親子のような気持にはなれないだろうともさ。だけど、あの方は、本田のお祖母さんよりか、きっと次郎ちゃんを可愛がって下さるわ。」
 次郎は、お延がいくぶんかでも自分の気
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