ちゃんをお育てしたのは、この乳母やですもの。」
お浜は、そう言って、もう一度そのしなびた乳房を次郎の手に握らせた。
三人は、涙ぐましい気持を、そのまま夢の中に運んで行った。そして、その夜は、抱く者と抱かれる者とが、全くその位置をかえたような一夜であった。
二〇 朝の奇蹟
子供の健気《けなげ》な道心というものは、しばしば大人の世界に奇蹟《きせき》を生み出すものである。次郎は一夜にして、お浜の盲目的な愛情に理性の輝きを与えた。そして、この奇蹟は、その翌日には、本田一家の生活に、更に一つの奇蹟を生み出す機縁になったのである。
お浜は、翌朝は、もう五時まえに眼をさましていた。そして、床の中で何かしきりに考えているようなふうだったが、店の戸を開ける音が聞えると、そっと、お鶴を起し、二人で台所に行って、何かとお芳の手伝いをした。やがて、みんなが起出し、家の中がひととおり片づいたあとで、彼女は、茶の間に一人で茶を飲んでいた俊亮の前に坐って、言った。
「あたし、今日は、ついでに、大巻さんにもごあいさつに上っておきたいと存じますが……」
「大巻に?」
と、俊亮はちょっと腑《ふ》におちないといった顔をして、
「そりゃ行くにこしたことはないし、向こうでも喜ぶだろうが、そう無理をせんでもいいよ、私から、そのうちに、お前の気持はつたえておくから。」
「でも、やっぱり、一度はぜひお伺いしておきたいと思いますし、またと申しておりますと、今度はいつ出て来れますやら……」
「そうか。しかし、今日そんな時間があるのかい。」
「ええ、朝のうちにお伺いすれば、夕方の汽車には間にあいますから。」
「すいぶん忙しいね。」
「もしか間にあわないようでしたら、迷惑でも、こちらにもう一晩泊めていただくつもりで……」
「そりゃあ、ここに泊るぶんには、幾晩《いくばん》でもいいさ、お前の都合さえつけば。……じゃあ行ってくるかな。」
「はい、是非そうさしていただきます。……それで、あのう、坊ちゃんをおつれ申したいのですけれど。」
「なあんだ、そうか。ゆうべのうちにちゃんと次郎と約束が出来ていたんだね。はっはっはっ。」
「いいえ、決してそんなわけではございません。あたし、大巻さんへは、はじめてですし、だしぬけに一人でもどうかと思いますものですから……」
お浜はまじめだった。俊亮はやはり笑いながら、
「そりゃあ、次郎をつれて行くのに相談はいらんよ。行くなら、やはりあれをつれる方がいいね。しかし……」
と、俊亮は急にまじめな顔になって考えていたが、
「お芳も、大巻にはしばらく行かないようだが、あれもいっしょだと、なおいいね。」
「そうお願い出来れば何よりですけれど、急に、ご無理じゃございませんかしら。」
「そんなことはないよ。お前さえ、その方がよければ。」
「そりゃあ、もう、そうしていただけば……」
二人の気持は、いつの間にか、よく通じているらしかった。
「おい、お芳。」
と、俊亮は台所の方を見て、
「お浜が、きょう、大巻にごあいさつに行きたいって言っているが、どうだい、久しぶりで、お前も次郎といっしょに、案内かたがた行って来ないか。」
お芳はすぐ茶の間に顔を出した。そして、
「あたしは行ってもよろしゅうございますが、ちょっとお祖母さんにおたずねしてみませんと。」
彼女はそう言って仏間の方に行った。その時、二階から、お鶴も交じって子供たちが四人でおりて来た。俊亮は微笑しながら、
「次郎、お前、きょう大巻に行くのか。」
次郎は、きょとんとした顔をしていたが、
「どうして?」
と、俊亮とお浜の顔を見くらべた。
「なるほど、約束があっていたわけじゃなかったのか。」
と、俊亮はてれたように笑いながら、
「乳母やが今日は母さんと大巻に行くんだ。お前も行って来たらどうだい。」
「うん。」
次郎はすぐうなずいた。が、自分のそばに立っている俊三に気がつくと、
「僕だけ? 俊ちゃんは?」
「俊三か。そうだね、行きたけりゃあ、行ってもいいが……」
俊亮の答は変にしぶっていた。次郎は、しかし、それに、頓着せず、
「行こうや、俊ちゃん。母さんも行くんだから。」
「うん、行くよ。」
俊三はもう乗気だった。すると、次郎は、今度は恭一に向かって、
「恭ちゃんも行くといいなあ。どうする恭ちゃん。」
「行ってもいいよ。」
恭一はあっさり答えた。
「なあんだ、それじゃあ、みんなが行くことになるんじゃないか。」
と、俊亮は、ちょっと苦笑して、
「お鶴もいっしょだと、六人だぜ。大巻でびっくりしやしないかな。」
「大ぜいの方が、大巻のお祖父さんだって、喜ぶんです。」
次郎は、俊亮が何を考えているのか、まるで気がついていないらしく、そう言って、一人で喜んでいた。そこへ、お祖母さんとお芳が仏間から出て来たが、お祖母さんは、すぐ俊亮に言った。
「お芳さんまでが、わざわざついて行くにも及ぶまいよ。あたしは、次郎だけの方が、かえっていいと思うのだがね。」
お祖母さんは、べつに皮肉を言っているようなふうでもなかった。しかし、俊亮は、変に顔をゆがめながら、
「ええ――」
と生《なま》返事をして、しばらく眼をつぶっていたが、
「じゃあ、母さんはよすか。ねえ、次郎。」
次郎はちょっと失望したらしかった。が、すぐ、
「ええ。」
とすなおに答えて、
「すると、俊ちゃんは?」
「俊三は、行きたければ行ってもいいさ。」
「どうする? 俊ちゃん、母さんが行かなくても、行く?」
「ううん――」
俊三はあいまいに答えて、お芳を見た。すると、お祖母さんが、けげんそうに、
「俊三も行くことになっていたのかい。」
「ええ、実は、私は次郎だけのつもりだったんですが、次郎が俊三をさそったものですから。」
「次郎が? 俊三を? そうかね。」
お祖母さんは、まじまじと次郎を見て、何か考えるらしかった。
「だって、母さんも行くのに、俊ちゃん残るの、つまんないや。ねえ、俊ちゃん。」
俊三は赧《あか》い顔をした。俊亮も、次郎がそう言うと、じっとその顔を見つめて、考えていたが、
「お祖母さん、どうでしょう、やっぱりお芳もやることにしては。」
「そうだねえ――」
と、お祖母さんは、お芳の方を見て、
「じゃあ、俊亮もああ言っているし、やっぱり行ってやることにしますかね。」
「はい。ではそういたしましょう。」
お芳はちょっとお浜を見て、台所の方に立って行った。お浜はその時、次郎の顔を見ていたが、その眼は、いくぶん涙ぐんでいるようだった。
「すると結局、六人になってしまったな。大巻では、だしぬけに大変だろう。ご馳走はこちらから用意して行くんだな。」
「六人っていうと?」
と、お祖母さんがまたけげんそうな顔をした。
「恭一とお鶴、それで六人でしょう。」
「おや、おや、恭一も行くのかい。」
「次郎がみんなをひっぱり出すもんですからね。」
「そうかい。……次郎がね。……そうかい。」
と、お祖母さんは、やたらにうなずいた。
「どうだ、次郎、ついでにお祖母さんもひっぱり出しちゃあ。」
「ええ――」
次郎は顔を少しあからめて、お祖母さんの顔を見ていたが、
「そうだなあ、お祖母さんも行くといいや。ねえ、恭ちゃん。」
恭一はにがい顔して、じっと次郎を見つめた。見つめられて、次郎ははっとしたように目を伏せた。
(ませっくれ!)
彼は恭一にそう叱られているような気がしたのである。
俊亮も、二人の様子にすぐ気づいた。彼は、しかし、今は次郎の努力を買ってやりたい気持でいっぱいだった。いつもなら、次郎のませっくれた態度が誰よりも気になる彼だったが、なぜか今日は、次郎をそんなふうにみる気には、少しもなれなかったのである。
「ほんとうにお祖母さんもどうです。こんなときに、お祖母さんがついて行って下さると、大巻でも、そりゃあ喜びますよ。」
「そうねえ。」
と、お祖母さんは、気のあるような、ないような返事をして、しばらく思案《しあん》していたが、ふと何かを思いついたように、
「そうそう、こうなれば、あたしより俊亮が行くのが、ほんとうだよ。ねえ、次郎、そうじゃあないかい。」
お祖母さんは、ずるそうな、しかし、まったく上機嫌な顔をして俊亮と次郎との顔を見比べた。
「私が?」
と、俊亮は、次郎のどぎまぎしている様子に、ちらりと眼をやりながら、自分もいくぶんうろたえて、
「そ、それはいけません。私は店のこともありますし、やはり、今日はお祖母さんに行っていただく方がほんとうですよ。」
「いいや、お前の方がほんとうだよ。店は、お前が留守でもこれまでだって、一日ぐらいどうにかなっていたんじゃないかね。」
「でも、お祖母さんがお一人でお留守番では……」
「なあに、留守番なら、あたしの方がお前より、はまり役だよ。男の留守番では、お茶をわかすにも困るじゃないかね。」
「いっそ、父さんも、お祖母さんも、行っちまったら、どうです。」
と、恭一がだしぬけに口を出した。もう、さっきの不愉快そうな顔は、どこにもなく、何か喜びに興奮しているようなふうだった。
みんなが、いっしょに声を立てて笑った。
「なるほど、そいつも一案だ。どうです、お祖母さん、恭一がああ言っていますが。」
俊亮が、そう言うと、恭一は、お祖母さんが答えるまえに、
「一案じゃないんです。絶対案です。ねえ、お祖母さん。」
お祖母さんは、眼をきょろきょろさして、
「ぜったいあんって、何だね。」
俊亮と恭一が、それでまた高笑いした。俊亮は、
「名案だって言うんですよ。」
すると、恭一が追っかけるように、
「きょうは、お祖母さんも、僕の言うとおりにならなきゃあならないことですよ。」
「まあ、まあ大変なことになったね。」
と、お祖母さんはお浜を見て、にこにこしながら、
「じゃあ、あたしもお浜のお伴《とも》をさしてもらいましょうかね。」
お浜は、もうその時、眼にいっぱい涙をためていたが、やにわに畳につっ伏して、
「みなさん、ありがとうございます。勿体のうございます。」
みんなは、それから、涼しいうちにというので、大急ぎで朝飯をすまし、支度をはじめた。俊亮は、その間に、店の者に命じて、蒲鉾《かまぼこ》だの、罐詰だの、パンだのを買い集めさせ、それをいくつにもわけて包ませた。ビールが何本か縄でしばられたのはいうまでもない。
「夕飯まえには帰って来るが、おひるは、何かですましておいてくれ。」
そう店の者に言って、みんなが家を出たのは九時近くだった。
お祖母さんのほかは、めいめい何か包をぶらさげていた。ビールは恭一と次郎の二人が捧につるしてかついだ。陽はもうかなり強く照りつけていたが、風があって、さほどの暑さでもなかった。みんなはいかにも楽しそうだった。お芳でさえいくぶんはしゃぎ気味だった。実際こんなことは、本田家はじまって以来の出来事だったのである。
むろん、誰も次郎をませっくれだなどと思っているものはなかった。次郎自身でも、さっきそんなことを自分で気にしたことなど、もうすっかり忘れていた。彼の眼には、おりおりお鶴の赤い日傘がちらついた。そして、今日こうして、みんなで大巷を驚かすのも、あの日傘がもとだと思うと、彼はまた「運命」というものを考えないでおれなかった。
彼は町はずれまで行くと、恭一に言った。
「きょうは何だか嘘みたいだなあ。父さんやお祖母さんまでが、いっしょに来るなんて……。でもあの時は恭ちゃんもうまくやったよ。」
「なあに、あんな工合になったのは、やっぱり次郎ちゃんの力さ。」
「そんなことないよ。」
次郎は、そうは答えながらも、何か誇らしい気持だった。
(自分は、もう、どんな運命にぶっつかっても、それを生かしてみせるんだ。)
そうした自信が、大巻の家に近づくに従って、彼の胸の底に次第に強まりはじめていたのである。
*
「次郎物語第二部」は、こうして、次郎にとってこれまでにない幸福な日曜日に、その結末を告げることになった。次郎の一見極めて不幸であった過
前へ
次へ
全31ページ中30ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング