去の「運命」は、今から考えると、むしろ、その幸福な日曜日の準備であったらしく思われる。彼の「愛」についての理解が、人に愛せられることから、人を愛することに一|大《だい》飛躍《ひやく》をとげ、従ってまた彼の魂が「永遠」への門を、たしかに一つだけはくぐることが出来たのも、全く彼の過去の「運命」のおかげだった、と言わなければなるまい。
 だが、次郎はまだようやく中学一年である。彼の「運命」の波はこれからまたどう高まって行くか知れたものでない。彼も恐らくそれを覚悟していることであろう。そして、彼がその覚悟どおりの人間であるかどうかは、実際に彼をその「運命」の波を漂わしてみなければわからないことである。で、もし私が、今後も、これまでどおり彼の身ぢかにいて、彼を見守ることが出来さえすれば、「青年次郎物語」とでもいったようなものを書いて、その報告をしたいと思っている。しかし、そうした縁が果して都合よく私に恵まれるか、どうか、それはやはり「運命」に任せるより仕方がないであろう。
「なぜもっと早く次郎を青年に育てなかったか」という一部の読者の抗議に対しては、どんな人間でも育つ時が来なければ育つものではない、ということをお答えするだけで十分であろう。無理な育て方は人間を虚偽《きょぎ》にする。次郎は筆者の空想で無理に育てあげられてはならない。空想で、偶然をつなぎ合わせて、手軽に次郎の「小説」をこしらえあげてしまうことは、これからも生きた「運命」の中で育とうとしている次郎本人にとって、実はこの上もない迷惑なのである。次郎に好意を持つ読者は、このことをよくのみこんでおく必要があろうかと思う。
[#改段]

あとがき

 昨年二月末、「次郎物語」を上梓してから、すでに一年三ヵ月になる。私は、あの物語の最後に、「次郎のほんとうの生活はこれから始まるであろう。」と書いておきながら、その当時、自分でそれを書きつづけるかどうかを、まだはっきり決めていなかった。ところが、その後間もなく、小山書店主にすすめられて、同店発行の「新風土」誌上に、その「ほんとうの生活」の一部、「続次郎物語」と題して連載することになり、この五月、十三回目で一まずけりがついた。けりがついたというのは、次郎の成長が一段階に達したという意味で、彼の「ほんとうの生活」が全部それで終ったというわけでは、決してない。しかし、ともかくも、一つの段階に達したのを機会に、それを一冊にまとめ、「次郎物語第二部」として世に送ることにした。
 もっとも「新風土」に連載しただけでは、多少書き足りない点もあったので、いよいよまとめることになってから、書き足した部分がある。一五、一九、二〇の三章がそれである。

     *

 念のために一言しておきたいのは、「次郎物語」第一部と第二部とは、次郎という一少年の成長記であるという点で、むろん一連の物語であるが、主題的には、両者はそれぞれ独立した物語になっているということである。
 前者においては、私は、運命の子次郎の生い立ちを描きつつ、実は主として「教育と母性愛」との問題を取扱った。その意味では、次郎は物語の主人ではあっても、問題の持主ではなかった。彼の生活の大部分は、むしろ、世の親達にそうした問題を考えてもらいたいための材料として描かれたようなものだったのである。
 だが、後者においては、次郎はもっと独立性をもった存在になっている。彼は、依然、母性愛に恵まれない運命の子として、世の親達にいろいろの問題をなげかけるではあろうが、最も大きな問題の持主は、実は彼自身である。「自己開拓者としての少年次郎」――それが、つまり、この篇の主題なのである。
 第一部において、彼の幸不幸を決定したものは、主としてその環境であった。そして、彼はその環境に対して、いつも、自然児的、本能的、主我的な闘いを闘って来たのである。だが、第二部においては、彼は徐々に彼自身の内部に眼を向けはじめ、そこに、周囲から与えられる幸福以上の何ものかを、探し求めようとしている。かくて彼の闘いは、次第に、理性的、意志的、道義的になって行くのである。

     *

 では、かような変化が、彼にどうして起ったか。それはいろいろなことが考えられるであろう。年齢か、環境か、教育か、愛か、運命か、人間共通の自然か、そもそもまた、そうしたことのすべてか。それについては、本篇に描かれた次郎の生活の実際に即して、読者と共に考えて行くことにしたいと思う。

  昭和十七年五月五日[#地から2字上げ]湖人生



底本:「下村湖人全集 第一巻」池田書店
   1965(昭和40)年7月10日発行
※「黒+犬」は、「默」で入力しました。
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2005年12月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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