でしょう。そりゃあ、もう、お祖母さんは、どうせそうだろうと、諦めてはいましたのさ。だけど、あたしだって、ひさびさでお訪ねしたんですもの、坊ちゃんにちっともいいところがないように言われると、何ぼ何でもねえ。」
 次郎は、默ってきいているより仕方がなかった。
「そんな時に、ですから、お母さんがはたから何とかおっしゃって下さるのが、あたりまえだと思いますわ。そりゃあ、お祖母さんのおっしゃることに、まともに反対も出来ますまいさ。だけど、その気がありさえすれば、何とかとりなしようがありそうなものですよ。そうすりゃあ、あたしだっていくらか察しがつきますわ。それでお母さんがいくらかでも、坊ちゃんのことを考えて下さるってことがね。だのに、まるで知らん顔でしょう。あたし、失礼だと思ったけれど、わざわざお母さんに、はばかりに案内していただいたんですよ。それでも、坊ちゃんのことはひとこともおっしゃらないんですもの。あたし、がっかりしたのあたりまえでしょう。」
「だって、母さんは物を言わない人なんだから、仕方がないさ。」
「いいえ、少しでも坊ちゃんのことをお考えなら、あんなにまで知らん顔は出来ませんよ。やっぱりお祖母さんといっしょになって、坊ちゃんを憎んでおいででしょう。」
「乳母や――」
「でなけりゃあ、馬鹿か気違いですわ。」
「乳母やったら――」
「坊ちゃんがおかわいそうなばかりに、お父さんがあの方をお呼びになったりていうじゃありませんか。それだのに――」
 お浜は、自分の言うことに自分で激《げき》して行くらしかった。
「乳母や、よそうよ、もうそんな話――」
「坊ちゃんは、どうしてそんな意気地なしなんでしょうね。お手紙では偉そうなことばかり書いておよこしのくせに。」
 次郎は、自分の手紙に書いてやる文句のほんとうの意味が、お浜にはちっともわかっていないのが淋しかった。同時に、きょう自分がみんなの前で学校での出来事を話し、将来を誓ったことを、乳母やはどんなふうにとっているのだろうか、と心細くなって来た。で、彼は、わざとはぐらかすような調子でたずねた。
「だって、父さんは、うちで一番偉いのは僕だって言ったんだろう。」
「まあ、坊ちゃんは、お父さんにあんなこと言われてほんとうに偉くなったおつもりでしたの。ご自分は泣きながら、お祖母さんやお母さんにあやまっていらしったくせに。」
「じゃあ、どうして、父さんは僕を偉いって言ったんだい。」
「そりゃあ、あの時、坊ちゃんがあんまりおかわいそうでしたからですわ。」
「でも、恭ちゃんも、僕に負けたって言ったんじゃないか。」
「坊ちゃんは、どうしてそんなにお人よしにおなりでしょうね。恭さんだって、やっぱり坊ちゃんをかわいそうだと思って、取りなして下すったんですわ。」
「だって、乳母やも、あの時は喜んでいたんじゃないか。」
「喜んでなんかいませんわ。あたし、癪で癪でならないでいた時に、お父さんが、ああ言って、お祖母さんやお母さんの鼻をあかして下すったのが、ありがたかっただけなんですわ。……坊ちゃんは、何てじれったいお気持でしょうね。」
 お浜は、そう言ってため息をついた。
 次郎は、自分とお浜との気持のへだたりが、あまりにも大きいのに驚いた。
(いつの間に、二人はこんなにちがって来たのだろう。以前は、乳母やの気持と自分の気持とがべつべつであったことなど、一度もなかったのに。)
 彼はそう思わないではおれなかった。そして、はっきりとではないが、母が亡くなった頃のこと、入学試験にしくじったあとのこと、いよいよ中学にはいってからのこと、と、つぎつぎに考えて来て、やはりこの二年ばかりの間に、自分が次第に伸びて来たのだ、という感じを深くした。しかし、最後に、
(もし乳母やの来るのが、今日でなくて昨日だったとしたら、どうだろう。今度の母さんのことを、さっきのように乳母やが悪く言うのを、自分は、果して、味方を得たような気にならないで聞いていられただろうか。)
 と、考えた時に、彼は今更のように、きょうの学校での出来事を思いおこし、何か厳粛な気持にさえなるのだった。
 同時に、彼は、お浜が自分を意気地なしだと言って、一途に腹を立てているのが、あわれに悲しいことのように思えて来た。
「乳母や――」
 と、彼は、お浜の方に手をのばして、その腕を握りながら、
「乳母や、おこってる?」
「…………」
 お浜は返事をしないで、またため息をついた。
「乳母やは、僕が可愛いんだろう。」
 次郎に握られたお浜の腕が、ぴくっと動いた。しかし、やはり返事がない。
「ね、可愛いんだろう。ちがう?」
「坊ちゃん――」
 と、お浜はいきなり次郎を自分の方に引きよせて、
「坊ちゃんは、どうしてそんなことを乳母やにおききになるの?」
「ほんとうに可愛いんなら、僕、乳母やに言うことがあるからさ。」
「そりゃあ。可愛いんですとも、可愛いんですとも。乳母やがこんなにおこったりするのも、坊ちゃんが可愛いからですわ。だから乳母やがおこったからって、心配することなんかありませんわ。おっしゃりたいことがあったら、何でもおっしゃい。乳母やになら、何をおっしゃっても、かまいませんよ。……どんなこと? 乳母やのまだ知らないことで、なにかきっといけないことがあるんでしょう? お祖母さんのこと? それともお母さんのこと? きっとお母さんのことでしょう? ね、そうでしょう。」
 次郎は、自分の言おうとすることと、お浜のききたがっていることとが、まるであべこべなことだと知ると、出鼻をくじかれたような気持になり、しばらく默っていた。すると、またお浜が言った。
「じれったいわね、坊ちゃんは。……お鶴がいるのがいけませんの? だって、お鶴は坊ちゃんの味方じゃありませんか。乳兄弟ですもの。」
「お鶴がいたっていいさ。」
「じゃあ、早くおっしゃいね。」
「ねえ、乳母や。――」
「ええ。」
「僕の言いたいことは、乳母やの考えてるような悪いことじゃあないんだよ。」
「そう?」
「お祖母さんのことでも、母さんのことでもないんだよ。」
「そう?」
 お浜は、何か拍子《ひょうし》ぬけがしたような調子だった。
「ねえ、乳母や――」
「ええ……?」
「僕は乳母やよりも偉《えら》いんだろう。偉くない?」
「乳母やより? まあ、可笑しな坊ちゃん。乳母やどころですか、ほんとうはやっぱり恭さんよりも、お父さんよりもお偉いんですよ。誰よりもお偉いですよ。」
「ほんとうにそう思ってるんかい?」
「思ってますともさ。」
「でも、僕には、乳母やが嘘ついてるように思えるんだよ。」
「どうして? さっき、あたしがあんなこと言ったからですの?」
「うむ。……乳母やには、僕、ほんとうは意気地なしに見えるんだろう。」
「そんなことあるもんですか。あの時はちょっと言ってみただけなんですよ。坊ちゃんがあんまり負けてばかりいらっしゃるようだから。」
「負けるの、意気地なしなんだろう?」
「そ……そうね、そりゃあ、ほんとうに負けたら、意気地なしですともさ。」
「だから、僕、やっぱり意気地なしだろう。偉くなんかないんだろう。乳母やはそう思ってるんだろう。」
「まあ、坊ちゃん! 坊ちゃんは、どうしてそんなにひねくれてお考えになるの? 坊ちゃんらしくもない。」
「ひねくれているんじゃないよ。」
「だって――」
 と、お浜は、もう泣き声だった。
「乳母や、……乳母や……」
 と、次郎は、お浜のからだをゆすぶりながら、
「僕は、ちっともひねくれてなんか、言ってるんじゃないよ、ほんとうにそうだよ。」
「じゃあ、ど……どうして、あんな意地悪なことおっしゃるの?」
「意地悪じゃないよ。だって、乳母やの考えてることと、僕の考えてることとが、まるでちがってるんだから、しようがないよ。」
「じゃあ、どうちがっていますの?」
「乳母やは、僕がみんなに負ける、だから偉くないって、そう思ってるんだろう。」
「ほれ、また。」
「わかんないなあ、乳母やは。」
「わからないのは坊ちゃんですよ。」
 次郎は笑い出した。お浜も、つい、つりこまれて淋しく笑った。次郎は、しかし、すぐまじめになって、
「乳母や、負けるって、どんなこと?」
「負けるって、負けることですよ。」
 次郎はまた笑った。すると、今度はお浜がたずねた。
「じゃあ、坊ちゃんは、どうお考えなの?」
「僕はね、乳母やが勝ちだって考えていることが負けるってことで、負けるって考えてることが勝ちだってことだと思うよ。」
「まあ! 変ですわね。それ、どういうことですの?」
「乳母やは、人の喜ぶようなことをするの、いいことだと思う?」
「そりゃあ、いいことですともさ。」
「僕がお菓子をもってる。それを俊ちゃんがほしがるから、やる。すると俊ちゃんが喜ぶから、いいことだろう。」
「ええ、……それは……まあいいことでしょうね。」
「お祖母さんや、母さんに、僕がこれまでわるかったってあやまる。すると二人とも喜ぶ。それもいいことだろう。」
「ええ、……でも……」
「悪いの?」
「時と場合によりますわ。どんなに無理を言われても、坊ちゃんがあやまってばかりいらしったんでは……」
「だって、それで、お祖母さんも母さんもやさしい人になったら、いいんだろう。」
「それならいいですとも。」
「僕、きっと二人をやさしい人にしてみせるよ。」
 次郎は、きっぱり言いきった。お浜は默って考えこんだ。
「僕、ね、乳母や――」
 と、次郎は、また、しばらくして、
「僕、これまで人に可愛がられたいとばかり考えたのが悪かったんだよ。僕、これから、人に可愛がられるよりも、人を可愛がる人間になりたいと思うよ。いつか、僕、乳母やにやった手紙に、人に可愛がられなくても、独りで立って行けるような強い人間になりたい、って書いたと思うんだけど、あれだけではいけないんだよ。ほんとうに強い人間になるには、人を可愛がらなくっちゃ駄目なんだよ。僕たちの校長先生は、いつもそう言ってるよ。」
「坊ちゃんは、まあ、何てお偉くおなりでしょう。」
 お浜は、またきつく次郎を抱きしめた。次郎は抱きしめられながら、
「乳母やよりも、だから、僕、偉いんだろう。」
「ええ、ええ、……」
「父さんが僕を偉いって言ったの、うそじゃないんだろう。恭ちゃんが僕に負けたって言ったのも。」
「ええ、ええ、……乳母やはほんとうに駄目でしたわねえ、さっきはあんなこと言って。……あやまりますわ。ほんとうにあやまりますわ。そして、これから、坊ちゃんにお手紙でいろんなことを教えていただきますわ。……でも――」
 と、次郎を抱いていた腕を、少しゆるめて、ひとり言《ごと》のように、
「こんなおやさしい坊ちゃんを、お祖母さんもお母さんも、どうしてこれまで、いじめてばかりいらっしたんでしょうねえ。」
「僕、わるかったからさ。正木のお祖父さんが、僕のちっちゃい時、人間に好き嫌いがあっては偉くなれない、って言ったことがあるんだけど、僕、それが今までわかってなかったんだよ。」
「でも、坊ちゃんだけがお悪いんじゃありませんわ。坊ちゃんは何ていったって、子供ですもの。やっぱりお祖母さんやお母さんが……」
「乳母やは、駄目だなあ。まだあんなこと言ってる。乳母やは、僕がお祖母さんや母さんを嫌いになるのが好きなんかい。」
「そうじゃありませんけれど……」
「なら、よせよ。僕がお祖母さんや母さんが嫌いになったら、お祖母さんだって、僕を嫌いになるだろう?」
「…………」
 お浜は深い吐息《といき》をした。
「おっかちゃん!」
 と、その時、お鶴がだしぬけに声をかけた。
「駄目ね、おっかちゃんは。……あたしだって、次郎ちゃんの言ってること、もうわかってるわよ。」
「乳母や、まだわかんないの――」
 と、次郎はお浜の頸に手をかけて、
「お鶴だって、もう乳母やより偉いんだぜ。」
 お浜は、もう一度軽い吐息をした。そして、
「ほんとうにね。」
 と、しみじみと言ったが、
「だけど、それでいいんでしょう? 許して下さるでしょう。だって、誰よりもお偉い坊
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