、きまりわるそうに体をゆさぶりながら、
「僕、もうきっと誰とも喧嘩なんかしません、学校でだって、家でだって。……これまで、僕、自分のことっきり考えてなかったことが、よくわかったんです。だから……だから……」
彼は何度も言いよどんでは、お祖母さんと、お芳の顔を見くらべていたが、そのまま首をがくりと垂れて、涙をぽたぽたと拳の上に落した。
一瞬、しいんとなった。
それまで、お祖母さんは、小刀のことでいつ俊亮が次郎を叱るかと、それを待っているかのように、眼ばかりじろじろさしていたが、次郎の涙を見ると、ちょっと意外だという顔をした。それから、ちらとお浜を見たあと、少してれたような、そして、うわべだけでもなさそうな笑顔をして、言った。
「次郎もそこに気がついたのかえ。なあに、そこに気がつきさえすれば、お祖母さんだって叱ってばかりはいないよ。やっぱり中学校には行くものだね。」
お芳はただうなだれていた。
お浜は、少しけんのある眼をして、お祖母さんとお芳とを見くらべていたが、そのまま唾をのみこんで、今度は俊亮の方を見た。
俊亮は眼をつぶって木像のように坐っていた。
「次郎ちゃん、僕、すっかり次郎ちゃんに負けちゃったよ。」
と、恭一が、その時、膝を乗り出すようにして、
「しかし、朝倉先生はやっぱり偉いなあ。僕、これまで偉いとは思っていたんだが、それほどだとは思っていなかったよ。……そして、その五年生って誰だい。」
「ううん、誰にも名前は言えないよ。」
次郎は、うつむいたまま答えた。
「そうか、多分あいつだろうと思うけれど。……しかし、まあいいや、誰だって、よくなりさいすりゃ、いいんだから。」
俊亮は、その時、やっと眼を見開いて、
「父さんも、もう次郎には負ける。うちで一番偉いのは次郎らしいね。これも乳母やのおかげかな。」
「坊ちゃん!……」
と、お浜はやにわに次郎に飛びついて、その肩を抱きすくめた。
お鶴は顔を赧らめて見ており、俊三はきょとんとして眼を見張った。
一九 夜の奇蹟
お浜には、しかし、まだ何か割り切れないものが残っているらしかった。
「一晩泊めていただくつもりで、あがりましたの。」
彼女は、来ると、すぐ、そう言っておきながら、夕飯ごろになると、お鶴に向かって、
「でも、やっぱり、おいとましましょうかねえ。」
などと言って、お祖母さんとお芳との顔色を読んだりした。それでも、俊亮が、
「何を言うんだ。次郎ががっかりするじゃないか。あすは日曜だし、次郎も、一日、うちにいるんだぜ。」
と、叱りつけるように言うと、変に浮かない顔をしながらも、結局、泊って行くことにしたのである。
夕食の食卓は、わりになごやかだった。以前だと、本田の家で、お浜たちがみんなと同じ食卓につくことなどめったになかったのだが、きょうは俊亮の言いつけもあって、二人は、むしろお客あつかいにされた。
お浜は、しかし、そんなことよりも、やはり次郎の皿の中のものが気になった。彼女は、食卓につくと、すぐ、じろりと兄弟三人の皿を見まわした。そして、べつにわけへだてがあっている様子も見えなかったので、やっと安心したように箸をとった。
「次郎ちゃん、今夜は、乳母やと二階に寝ろよ。僕は階下に寝るから。」
恭一は、夕食がすんだあとで、そう言って自分の夜具を二階から座敷に運んだ。夜具といっても、夏のことで、敷ぶとんと丹前《たんぜん》ぐらいだった。
「じゃあ、蚊帳がせまくて窮屈だろうけれど、お鶴もいっしょに二階に寝てもらったら、どうだえ。」
お祖母さんが、わりあい機嫌のいい顔をして言った。
「それがいい。狭いのも、かえって昔を思い出していいだろう。校番室だって、そう広い方でもなかったからね。」
と、俊亮が笑った。
お浜も、やっと笑顔になった。
そのあと、お芳が、一人でこそこそと夜具をそろえて、それを階段の方に運びだした。それに気づくと、次郎がすぐ立って行き、階段のところでそれを受取って、二階に運んだ。
二人はべつに口をききあわなかった。次郎は、しかし、妙に心がおどるような気持だった。それはお浜と二階に寝るようになったからばかりではなかったらしい。
「まあ、すみません。あたしたちの夜具まで、坊ちゃんに運んでいただいて。」
次郎が夜具を運び終ったころ、お浜が二階にあがって来て、言った。お鶴もそのあとについて来ていた。
六畳の蚊帳の中に、三人の夜具を入れるのは、かなり無理だった。それでも、どうなり蚊がはいらないだけの工面をして、三人は、はしゃいだ笑い声を立てながら、もう一度、階下におりた。
みんなが床についたのは、十一時ごろだった、二階では、お浜がまん中に、その右に次郎、左にお鶴が寝た。さほど寒い夜でもなかったので、寝てみると案外楽だった。三人の胸の中には悲しいまでの喜びが、しっとりしみ出ていた。
むろん、誰もすぐにはねむれなかった。お浜の口からは、校番室の頃の思い出が、つぎつぎにくりひろげられて行った。次郎とお鶴とはほとんど聞き役だった。ことにお鶴は無口で、合槌もめったにうたなかった。それでも、彼女が耳をすましていたことは、何か可笑しい話が出ると、すぐ「くっくっ」と笑い出すので、よくわかった。
お浜の思い出話の中には、次郎の記憶に残っていないことが、かなり多かった。次郎とお鶴がよく乳を争って泣いたこと、それがやかましいと言って先生に叱られ、お浜が一人を抱き、一人をおんぶして田圃道を歩きまわったこと、抱かれた方はすぐ泣きやむが、おんぶされた方はなかなか泣きやまなかったこと、――また、三歳か四歳ごろ、次郎が昼寝をしているお鶴の耳に豌豆《えんどう》を押しこんで、大騒ぎをしたこと、改作爺さんの入歯を玩具にして、一日、どうしてもそれを返そうとしなかったこと、北山の山王祭の人ごみの中で、買ってもらったおもちゃの風車をやたらにふりまわし、若い女の結い立ての髪にそれをひっかけて、その女を泣かしたこと――お浜は、そうしたことを、次から次に話していったが、次郎にとっては、たいていはもう覚えのないことだった。
「それでも、あたし、坊ちゃんがどんなにおいたをなすっても叱ったことなんて、一度もありませんでしたよ。お鶴の方がしょっちゅう叱られ役でしたわ。その代り、勘さんが、よく坊ちゃんを叱りましたわね。」
次郎は、そう言われて、すぐお鶴の頬ぺたのお玉杓子をつねった時のことを思い出した。そして、そのお鶴がこんなに大きくなって、お浜のすぐ向こう側に寝ているんだ、と思うと、何だかうそのような気がするのだった。
「でも、乳兄弟って、いいものですね。小さい時には、自分の乳をとられたうえ、いつもいじめられてばかりいたお鶴が、坊ちゃんからの手紙っていうと、そりゃ大さわぎで私に読んできかせるんですもの。ほんとの兄弟でも、なかなかそんなじゃありませんわね。」
お浜は、しみじみとした調子でそう言った。次郎は、お鶴の顔を闇の中で想像しながら、きょう学校の帰りにふと頭に浮かんだ「運命」という言葉を再び思い出して、深い気持になった。
お浜にとって、何よりも悲しい思い出は、何といっても、校舎の移転と同時に校番をやめなければならなくなったおりのことだった。彼女は、その話をし出すと、もう涙声になり、その当時の村長や校長を何かとこきおろすのだった。
「あたしたち、その頃はもう校番をやり出してから、十年近くにもなっていたんですよ。それを、学校が新しくなったからって逐い出すんですもの。あんな不人情の人たちってありゃしませんよ。それに、だいいち、私には坊ちゃんて方があったんでしょう。これで坊ちゃんにもいよいよお別れかと思うと、もう、くやしくって、くやしくって、いっそ一思いに新しい校舎に火をつけてやろうかと思ったこともありましたよ。」
次郎にも、そのころの記憶は、まだまざまざと残っていた。彼は言った。
「僕、あれから、毎日一度は、きっと古い校舎に遊びに行ってたよ。」
「そう? 坊ちゃんも、やっぱり、乳母やにわかれて、淋しくっていらしったのね。」
「でも、あの校舎がなくなって、野っ原になった時には、いやだったなあ。僕、校番室のあとに残ってた石に腰かけて、泣いたことがあったよ。」
次郎は、お鶴から来た年賀状のことを思い出したが、それについては何とも言わなかった。
部屋の中は、しばらくしいんとなった。が、やがてお浜の夜具がもぞもぞと動いたかと思うと、次郎は、もう夜具の上から、彼女の腕に抱かれていた。
「坊ちゃん、ほれ、このお乳ですよ。お鶴と二人で取りあいっこなすったのは。」
お浜は、次郎の手を探して、むりに自分の乳を握らせた。
「もうこんなにしなびてしまいましたわ。あのころは、坊ちゃんのお顔をすっかり埋めてしまうほどでしたのに。」
次郎は、お浜のあばら骨にへばりついている、つめたい、弾力のない肉の上に、ちょっぴり盛りあがっている乳房を指先に感じて、変に気味わるく思いながらも、何か、こう、泣きたいような甘さを胸の奥に覚えた。
「坊ちゃんが、お母さんのお乳をおいただきになったのは、たった二十日ばかりで、あとは、みんなこのお乳でしたのよ。だから、あたし、心のうちではいつもお母さんに威張っていましたの。……でも、……」
と、お浜は、かなり永いこと默りこんでいたが、急に身をおこして、自分の夜具にもぐりこみながら、
「ああ、あ、そのお母さんも、もういらっしゃらないし、乳母やも、威張るのに、ちっとも張合いがありませんわ。こうしてひさびさでお伺いしても、坊ちゃんのことを、どなたとしみじみお話ししていいのやら……」
お浜は、それから、お民の危篤の電報を受取って正木の家に駆けつけたおりの話をし出し、
「お母さんは、乳母やに、一度あやまっておかないと気がすまないって、おっしゃって下さいましたわね。覚えていらっしゃるでしょう。」
と、鼻をつまらせた。そして、
「気がお強くって、あたしも、しょっちゅう叱られてばかりいましたけれど、そりゃあ、何でもよくおわかりの方でしたわ。坊ちゃんのことだって、ああして最後までお気にかけて、わざわざあたしをお呼び下すったんですものねえ。それに、何と言ったって、実のお母さんですわ。実のお母さんなればこそ、あたしのようなものにまで、あやまるなんておっしゃって下すったんですわ。血をひかない他人には、とても出来ないことですよ。」
お浜の言葉にさそわれて、亡くなった母の思い出にひたりきっていた次郎は、そこで、急に何かにつきあたったような気がした。
(乳母やは、今度の母さんのことで、何かいけないことを言おうとしているんだ。)
彼はすぐそう思って、落ちつかなかった。そして、お浜のつぎの言葉を待つのが、何だかいやだった。で、彼はとっさに言った。
「そんなこと、あたりまえじゃないか、乳母や。」
「あたりまえって言えば、あたりまえですけれど……」
と、お浜は、そのあとをどう言ったら、自分の言いたいことが言えるのか、ちょっとまごついたらしかったが、急に調子をかえて、
「あたし、ねえ、坊ちゃん、きょうお伺いして、ほんとうは、がっかりしていますのよ。」
「どうして?」
次郎は、不安な気がしながらも、そう問いかえさないわけにいかなかった。
「どうしてって、あたしは坊ちゃんの乳母やでしょう。それがきょうしばらくぶりでお訪ねしたんじゃありませんか。そしたら、かりにも坊ちゃんのお母さんと言われる人なら、何とか、もう少しぐらい、しみじみと坊ちゃんのお話をして下さるのが、あたりまえですわ。」
「母さんは、ふだんから、あまり物を言わないんだよ。」
「そうかも知れませんが、それにしても、あんまりですよ。坊ちゃんが学校からお帰りになるまえだって、一言も坊ちゃんのことはおっしゃらなかったのですよ。お話しになるのは、お祖母さんばっかり。……ねえ、お鶴、そうだろう。」
「ええ、そうだわ。」
お鶴は、いかにも不平らしく、強く合槌をうった。
「それに、お祖母さんのお話ったら、きいてて腹が立つことばかりなん
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