を通る女を眺めていたなんて、そりゃ自分の口から言えんのがあたりまえだ。」
衣嚢の中で小刀を握りしめていた次郎の手は、もうすっかり汗ばんでいた。
「本田、――」
と、三つボタンはいかにも訓戒するような調子になって、
「貴様の行いは全校の恥だぞ。しかも、貴様はまだ一年生じゃないか。一年生の時から、女に興味を持つなんて、生意気千万だ。将来の校風が思いやられる。」
次郎は、相手が真面目くさった顔をして、そんなことを言うのを聞いているうちに、妙にくすぐったい気持になって来た。同時に、彼の態度にはかなりの余裕が出来た。彼の機智《きち》が動き出すのは、いつもそんな時である。
彼はすまして言った。
「僕、女なんか見ていません。」
「馬鹿! 現に見てたじゃあないか。」
「見てたっていう証拠がありますか。」
「何! 証拠だと? ずうずうしい奴だな。証拠は俺の眼だ。」
「じゃあ、どんな女を見てたんです。」
「こいつ!」
と、三つボタンは真赤になって次郎を睨んだ。が、すぐ、どうせ相手は鼠でこちらは猫だ、というような顔をして、
「貴様はなるほど偉い。俺も一年生に詰問《きつもん》されたのは、はじめてだ。五年生も、こうなっては駄目だね。……まあ、しかし、折角の詰問だから、答えてやろう。俺がいいかげんな当てずっぽを言っているように思われてもつまらんからな。……貴様は、さっき、赤い日傘をさした女を眺めていたんだろうが。……どうだ、参ったか。」
次郎はかすかに笑った。しかし、それは相手に気づかれるほどではなかった。彼はすぐ、いかにも解《げ》せないといった顔をして、言った。
「そんな女が通ったんですか。」
「とぼけるな!」
と、三つボタンは大喝《だいかつ》して拳をふりあげた。もういよいよ我慢がならんといった彼の顔つきだった。
が、その時には、次郎もすでに二三歩うしろに身をひいていた。しかも、彼は、彼の右手に、二寸余の白い刃を見せて、しっかと小刀を握りしめていたのである。
次郎は、その小刀を腰のあたりに構えながら、青ざめた微笑をもらした。そして、唾を一息ぐっとのみこんだあと、吐き出すように言った。
「五年生だと、女が通るのを見ていいんか!」
次郎のあまりにも思い切った態度や言葉づかいは、病的な伝統をそのまま上級生の正義だと心得ている三つボタンにとっては、全く信じられないほどの無礼さだった。彼は、一瞬あっけにとられたような顔をして次郎を見た。
が、次の瞬間には、彼は世にもみじめな存在だった。彼は、次郎をなぶろうとして、あべこべに次郎になぶられていたことに気がついたのである。――何という辛辣《しんらつ》な皮肉だ。そして何という上級生としての恥辱だ。こうなった以上、もう言葉だけで何と次郎をおどかそうと、ただ自分をいよいよ滑稽なものにするばかりだ。かといって、上級生の権威を護るための最後の手段に出ることは、次郎の右手に光っている小刀の危険を冒すことなしには、今や全く不可能である――彼は、実際、自分以上の無法者を、だしぬけに、しかも自分の小さな獲物を発見して、進むことも退くことも出来なくなってしまったのである。
行詰った三つボタンは、変なせせら笑いをするよりほかなかった。それは、多くの人々が自分の不正と卑怯とをごまかすために、しばしば用いる手段である。だが、それがいくらかでも役に立つのは、相手がこちら以上に不正で卑怯な場合だけである。次郎に対しては、むろん何のききめもなかった。しかも、次郎を動かしていたのは、もはや彼の機智だけではなかった。彼は公憤に燃えていた。いや、公憤というようは、もっと全生命的な、己を忘れた、そして、ただちに死に通ずるといったような気持が、彼を三つボタンに対して身構えさしていたのである。
三つボタンのせせら笑いを見ると、次郎はそれをはじきかえすように叫んだ。
「馬鹿! 何を笑うんだ。あの女の子は僕の乳母やの子じゃないか。僕は乳母やと今までそこで話していたんだ。それから二人を見おくっていたんだ。それが悪いんか! 自分で知りもしない女の子を眺めていた貴様と、どっちが悪いんだ!」
次郎の眼からは、もう涙があふれていた。彼は、しかし、罵りやめなかった。
「五年生は、制服のボタンがついてなくともいいんか! こんなところにかくれて、煙草を吸ってもいいんか! そんな五年生が僕たちの上級生なら、僕はもうこの学校にいなくてもいいんだ! なぐるならなぐってみい! 貴様のような奴に死んだって負けるものか! ち、ちく生! 卑怯者! ごろつき!」
次郎は、自分の声に自分で興奮して、何を言っているのか、もう、まるで夢中だった。
いよいよみじめだったのは、三つボタンである。そうまで言われては、彼も、いつまでもせせら笑いばかりはして居れなかった。されはといって、彼が「卑怯者」で「ごろつき」であることが、次郎の言うとおりであるかぎり、次郎が決死的になればなるほど、彼としては、始末がつけにくくなるのであった。
だが、彼にとって何という仕合わせなことか、――たしかにこの場合に限っては、彼もそれでほっとしたにちがいないと思うが――そのせっぱつまった場合に、ひょっくり校内巡視の先生がやって来たのである。
巡視は当番制で、ほとんど大ていの先生に割当てられていた。その日の当番は朝倉先生だった。朝倉先生は、尊敬に値すると噂されている先生の一人だったが、一年の教室に出ないので、次郎は、まだ、しみじみとその顔を見たことがなかった。
先生がやって来たのは、次郎が三つボタンに対して最後の罵声をあびせ終って、まだ三十秒とはたたないころだった。
それを最初に見つけたのは、三つボタンだった。それは、先生が次郎のうしろの方からやって来たからである。
先生は、ほんのちょっと、次郎の一間ほどうしろに立ちどまって、二人の様子を見た。それから、默って二人の横に立った。
三つボタンは、もうその時には、すっかりうなだれていた。しかし、次郎はあくまで身構えをくずさなかった。
先生の眼は、すぐ次郎の小刀にとまった。しかし、やはり口をきかない。そして、その眼はすぐ三つボタンの顔にそそがれた。それからおおかた二分近くもたったころ、先生は、だしぬけに草深い地べたにあぐらをかきながら、重いさびのある声で言った。
「まあ二人とも腰をおろしたまえ。」
三つボタンはすぐ腰をおろした。が次郎はまだ身構えたまま、先生を見ていた。すると、朝倉先生は、にっこり笑って次郎を見かえした。次郎は、それですっかり身構えをくずし、気がぬけたように腰をおろした。
「小刀はもう握っていなくてもいい。しまったらどうだ。」
先生にそう言われて、次郎は、自分がまだ小刀を握っていたことに、はじめて気がついたらしく、あわててそれを衣嚢に押しこんだ。
「君は一年だね。名は?」
朝倉先生は次郎の襟章を見ながらたずねた。
「本田次郎です。」
「本田か、ふむ。……だが、室崎と一|騎《き》打《うち》では、ちょっと骨だったろう。」
次郎は、三つボタンは室崎というんだなと思った。
「しかし立派だった。実は、君が室崎に言っていたことは、私もかげで聞いていたんだ。」
次郎は、あらためて先生の顔をみた。色の浅黒い、やや面長の、髯のない人だった。眼がすきとおるように澄んで、よく光っていた。年は権田原先生より少し若いくらいだった。
「だが、本田、――」
と、先生は言いかけたが、ちょっと思案して、
「まあ、しかし、室崎の方からきこう。どうだ、君の気持は?」
室崎は、ただうなだれていた。先生は、あわれむように彼を見ながら、
「正しい人間の強さというものが、今日こそしみじみわかったろう、いい教訓だ。本田を下級生だと思うな。先生にも出来ない教訓を君に与えてくれたんだ。逆怨《さかうら》みはそれこそ恥の上塗《うわぬり》だぞ。何を恥ずべきかがわかれば、君もほんとうの強い人間になれる。今のままだと、君ほど弱い人間は恐らくないだろう。私は、はっきりそれを言っておく。いいか。室崎。」
朝倉先生は、そう言って、室時の首がさかさまになるほど垂れているのを、じっと見つめ、
「およそ何が恥ずかしいと言っても、無慈悲なことをするほど恥ずかしいことはないぞ。無慈悲な人間は、強いように見えて、実は一番弱いものなんだ。私は、君らが何の理由で喧嘩をやり出したかは知らん。また、このまま無事に治りさえすれば、強いて知ろうと思わん。だが、室崎の下級生に対する無慈悲な態度が、その理由の一つであったことに、間違いないだろう。講堂の額は、ただの飾りではないぞ。大慈悲を起し人の為になるべきこと、――君は、もう四年以上も、それを見つづけて来ているんではないか。校長が訓話のたびに慈悲心を説かれるのを、君は何と聞いて来たんだ。……ねえ、室崎、君は、校長が口で説かれるとおりの慈悲の人であったればこそ、今日まで無事に学校にいられたんだぞ。先生たちのうちに、誰ひとり君を弁護する者がなかった時でも、校長だけは、頑として君の退学処分を承知されなかったんだ。あんな生徒であればこそ見放してしまってはかわいそうだ、と言われてね。校長のその気持が少しでもわかったら、自分がもっと真面目になるのはむろんのこと、下級生にだってもう少しは人間らしい接し方がありそうなものだ。君は、元来、それほどのわからずやでもないはずだがね。」
朝倉先生の言葉は、切々《せつせつ》として、はたで聞いている次郎の胸にも、深くしみていった。
「じゃあもういい。もう間もなく午後の時間だ。二人とも、これを縁に仲よくせい。それも大慈悲の一つのあらわれだ。……それから、今日のことはほかの生徒には秘密だぞ。喋ったって誰の名誉にもならん。」
朝倉先生が立ち上ると、二人も立上った。そしていっしょに銃器庫の角をまがりかけたが、朝倉先生は思い出したように、
「おお、そうだ。本田にはまだ言うことがあった。本田は今度の時間は何だ。」
「剣道です。」
「じゃ道場の方にいっしょに歩きながら話そう。教室にはもう用はないかね。」
「竹刀をとって来ます。」
次郎は走って自分の教室に入り、机の上に放ってあった弁当がらを始末して、すぐ朝倉先生のあとを追った。
朝倉先生は、渡り廊下を通らないで、白楊《ポプラ》の並木を仰ぎながら、ぶらりぶらり外をあるいていた。次郎が追いつくと、ちょっと時計を見て、
「まだ少し時間がある。腰をおろそう。」
と、一本の白楊の根もとの草に腰をおろし、次郎を手招きした。次郎が多少はにかみながら、並んで腰をおろすと、先生はすぐ話し出した。
「自分より強いと思っていたものに一度勝つと、そのあと善くなる人もあるが、かえって悪くなる人もある。君は多分よくなる方だと思うが、気をつけるがいい。とにかく自惚《うぬぼ》れないことだ。いい気になって増長しないことだ。自分は強いと自惚れたら、もうそれは弱くなっている証拠なんだからね。やはり慈悲心さ。慈悲心がある人は、どんなつまらん人間をでも軽蔑はしない。それから――」
と、朝倉先生は微笑しながら、
「君は小刀を握っていたね。あの時はやむを得なかったかも知れんが、これからは、もう兇器だけはよした方がいい。戦争じゃないからな。日本人同士が傷つけあうようになっては大変だ。それにあんなものを使って勝ったところで、ほんとうの勝にはならん。心で勝つのが、ほんとうの勝だ。つまり、相手を恐れさせるんでなくて、慕わせる。それが最上の勝だ。そうなるとやはり慈悲心だね、一番強いのは。……とにかく刃物はいかんよ。相手のために危険であるというよりか君自身のために危険だ。なあに、自分がなぐられる覚悟をきめさえすれば何でもないよ。なぐられるたびに偉くなると思えば、なぐられるのがありがたいくらいなもんだ。」
先生の言っている言葉の意味は、次郎にもよくのみこめた。しかし、気持としては、まだどこかぴったりしないところがあった。彼はいくぶんためらいながら、たずねた。
「先生、剣道は何のためにやるんですか。」
「うむ――」
と、先生は、
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