が一旦明日のことに向けられると、二人は、もう、彼にとって、他の同級生と少しも択《えら》ぶところのない存在だったのである。
 彼は、しかし、彼のそうした孤独をたいして淋しいとは感じていなかった。また、憤りや侮蔑の念も、たびかさなるにつれて、次弟にうすらいで行き、あとでは、かえって、同級生に対して憐憫に似た感じをさえ抱くようになった。こうした感情の変化は、彼にとって、元来さほど不自然なことではなかった。それは、つまり、彼がかつて算盤《そろばん》事件で、弟の俊三に対して示した感情の変化と、同じものだったのである。
 彼にとっての最も大きな失望は、彼の教室に出て来る先生の中に、権田原先生のような人を、ただの一人も、見出せなかったことであった。彼の眼に映じた中学校の先生というのは、小学校の先生にくらべて、何か専門らしいことをほんの少しばかりよけいに知っているだけで、およそ人間らしいところを少しも持合わせない人達ばかりだった。貧しい知識を教室で精一ぱいにしぼり出すこと、点数や処罰で生徒をおどかすこと、この二つの外には、用はないといった顔をしている人間、それを次郎は中学校の先生において発見したのである。
 もっとも、生徒間の噂によると、校内に二人や三人は、尊敬に値する先生がいないでもないらしかった。また、入学式の時に、彼が校長からうけた印象も、まだすっかり消えていたわけではなかった。しかし、そうした先生たちは、次郎たちとはまるでべつの世界に住んでいるようなもので、めったにその顔をのぞくことさえ出来ないのだった。次郎は、そのために、中学校というところは、小学校にくらべてずっと奥行があるような気もしたが、またいやに不便なところのようにも思った。
 とにかく、このことは、彼が中学校の先生にかけていた期待が大きかっただけに、彼をこのうえもなく淋しがらせた。そして、ある先生の授業のおりなどは、その時間じゅう、小学校の教室で権田原先生に教わっていた頃のことを思いうかべて、筆記帳にその似顔をいくつも書き並べていたことさえあった。しかし、一ヵ月、二ヵ月とたつうちに、中学校というところは、どうせそうしたものだ、と諦めるようになり、その淋しさも、いつとはなしにうすらいで行ったのだった。
 諦めるといえば、彼は家庭でも、お芳に愛してもらうことを、もうすっかり諦めていた。同時に、お祖母さんに対しても、これまでのような、わざとでも反抗してみたいという気持はなくなっていた。
(母さんやお祖母さんなんかを相手にするのが、ばかばかしい。)
 彼は、いつとはなしに、そんな気がしていた。はっきり意識して、そうなろうと努めたわけでもなかったが、中学に入学して以来、日一日と、母や祖母の問題がその深刻さを減じて行き、このごろでは、よほどのことがないかぎり、たいして気にもかからなくなって来たのである。それは、たしかに、中学校というものの空気が、彼にいろいろの新しい問題をあたえ、彼の関心を、急に家庭以外の世界にまで拡げてくれた結果にちがいなかった。その意味では、中学校というところも、尊敬すべき先生がいるいないにかかわらず、人間を成長させる何かの魔術をもったところだ、といえるであろう。
 乳母のお浜には、次郎は、それからも、たびたび手紙を出した。返事には、いつもきまって、一番になれとか、偉い人になれとかいうようなことが書いてあり、また、それとなく、今度の母との折合いがうまく行っているかどうかを、知りたいような文句がつらねてあった。次郎は、しかし、そのいずれにも、たいして心を動かさなかった。彼は、そうした手紙によって、お浜の自分に対する愛情を十分に味わいながらも、すでに一段と高いところに立って、その中の文句の意味を読もうとする気持になっていた。それはちょうど、多くの大学生が故郷の母から来る訓戒の手紙を読む時の気持と、同じようなものであったらしい。
(「一番」――「偉い人」――乳母やのおきまり文句はいつもこれだ。乳母やは、しかし、何がほんとうに偉いのかわかっているのだろうか。)
 彼はそんなふうに思った。また、お芳との関係についても、乳母やはいつまで自分を子供だと思っているんだろう、という気がしていた。尤も、この気持のなかには、何かしら、まだ割りきれないものが残っていた。ゆさぶると、底から、にがいものが浮いて来そうな気さえした。「一番」や「偉い人」を微笑をもって読んで行く彼も、「今度の母さん」のくだりになると、だから、いくぶん顔がひきしまって来たのである。
 さて、七月になって、お浜から、俊亮にあてて一通の葉書が来た。
 俊亮あてのお浜の便りは、全く珍しいことだった。文字も、いつもとちがって、誰か相当の人に頼んで書いてもらったものらしかった。それには、四角ばった時候の挨拶のあとに、次のような文句が書いてあった。
「本月八日御地に参上の用件これあり、その節は久々にて次郎様にもお目にかかり度、それを何よりの楽しみに致居候」
 俊亮は、次郎が学校から帰ってくると、待ちかねていたように、彼にその葉書を見せた。そして、久方ぶりに彼の頭をかるくぽんとたたいた。
 次郎は、さすがに心が躍った。しかし、彼は、
「ふうん。」
 と言ったきり、葉書を父にかえして、二階にかけ上った。
 机のまえに坐った彼の眼には、たった今、茶の間で、自分の顔を見つめていた祖母と母との眼が、いつまでもはっきり残っていた。

    一七 小刀

 七月八日は、ちょうど土曜だった、普通の授業は午前中ですみ、午後に、剣道の時間が一時間だけ残されているきりだった。
 次郎は、教室で弁当を食べながら、お浜のことばかり考えていた。
(あの葉書には、汽車の時間が書いてなかったが、もう、うちに来ているのだろうか。来ているとすれば、今ごろは、自分のことがきっと話の種になっているにちがいない。お祖母さんはどんなことを乳母やに話しているのだろう。……乳母やと今度の母さんとははじめて会うのだが、おたがいに、どんなふうな挨拶を交わしたのだろう。)
 次郎は、それからそれへと想像をめぐらし、はては、みんなの坐っている位置や、ひとりびとりの表情などをこまかに心に描いてみるのだった。そんなことは、このごろの彼には、あまり似つかないことだったのである。
 弁当は、いつの間にか空になっていた。次郎は、しかし、箸を握ったまま、いつまでも机に頬杖をついてぼんやり窓の外をながめていた。
 窓の五六間さきは道路で、学校の敷地との境は、木柵で仕切ってある。次郎は、見るともなく木柵を見ているうちに、急に「おや」と思った。木柵の外を二人づれの女が通り、その一人がお浜そっくりに見えたからである。
 彼は、弁当がらをそのままにして、やにわに外に飛び出した。そして、木柵と銃器庫との間を、その女の歩いて行く方向に走った。
 うしろ姿は、どう見てもお浜だった。次郎はあぶなく声をかけるところだった。しかし、彼女と並んで向側《むこうがわ》を歩いている女が、赤い日傘をさした十五六歳の少女だと気がつくと、声をかけるのが妙にためらわれた。もし人ちがいだったら……と思うと、少女の手前、いよいよ声が出せなくなるのだった。
 彼は、顔を正面に向けて、そのまま彼らを追いこした。そして三四間も抜いたと思うころ、廻れ右の練習でもやっているようなふうを装って、木柵の隙間から二人の顔をのぞいて見た。
 やはりお浜にちがいなかった。向こうもこちらを見ていた。そしてこちらが声をかけるまえに、
「まあ!」
 というお浜の頓狂な声がきこえた。
 木柵をへだてて、次郎とお浜とは向きあった。お浜の顔は、もう半分、木柵の間から、こちらに突き出している。
「まあ、まあ、お宅にあがるまえに、こんなところでお目にかかれるなんて、全く不思議ですわ。……でも、……」
 と、お浜はけげんそうに柵の内を見まわしながら、
「どうして、こんなところに、たったお一人でおいでなの?」
「僕、乳母やだと思ったから、ここまで追っかけて来てみたんだよ。」
「そう? そうでしたの? よく見つけて下すったのね。あたし、今朝着きましたけれど、この近所に用があったものですから、ついでに、坊ちゃんの学校をそとから覗かせていただきたいと思って、わざとこの道をとおってみたところですの……。でも、こんなところでお目にかかれるなんて、ちっとも思っていませんでしたわ。」
 次郎はうつむいて制服のボタンをいじくっていた。お浜は彼の姿を見あげ見おろしながら、
「あれから、もうそろそろ二年ですわね。でも、なんて大きくおなりでしょう。そうして制服を着ていらっしゃると、よけいお見それしますわ。今は坊ちゃんお一人だったから、すぐわかりましたけれど。」
 お浜はそう言って、うしろをふり向いた。
「坊ちゃん、あの子、誰だかおわかり?」
 次郎はうなずいた。彼は、お浜のうしろに立っている少女がお鶴であることが、もう、さっきからわかっていたのである。
 お鶴は、ややうつむき加減に、左頬を見せていた。白いものを少し塗っているので、以前ほどに眼立たなかったが、お玉杓子に似たあざは、やはり、もとのままだった。
「あの子も大きくなったでしょう。今日は、今から二人でお宅にお伺いしますわ。……坊ちゃんは何時ごろお帰り?」
「二時までだけれど、剣道だから、ちょっとおそくなるよ。」
「でも、三時頃には、お宅にお帰りになれるでしょう。あたしも、ちょっと買物をしますから、たいてい、ごいっしょごろになりますわ。お宅でゆっくり話しましょうね。」
「僕、なるだけ早く帰るよ。」
 次郎は、そう言って、柵をはなれながら、ちらっとお鶴の方に眼をやった。お鶴も、その瞬間、まともに彼の方を見た。
 二人は、視線がぶつかると、あわてたように下を向いた。
 次郎は、すぐ教室の方に、帰りかけたが、途中でもう一度立ちどまって、柵の隙間を縫って行く赤い日傘を見おくった。
 次郎の心は、もう五六歳頃の昔に飛んでいた。お鶴の頬ぺたのお玉杓子をつねった時のことが、つい昨日のことのようにはっきり思い出された。――お鶴の様子はすっかり変っている。今ではもう自分の姉さんとしか思えないほどだ。だが、お玉杓子だけは、相変らず、昔のままにくっつけている。お鶴にとっては、むろんいやなことにちがいない。しかし、思い出というものは、何と甘い、そして美しいものだろう。――
 次郎は、つい、うっとりとなって立っていた。と、だしぬけに、うしろの方から、いやに落ちついた声がきこえた。
「おい……本田。」
 次郎は、ぎくっとしてふり向いた。すると、ちょうど銃器庫の角のところに、一人の上級生が、巻煙草を吸いながら、にやにや笑って立っていた。
 それは「三つボタン」だった。――尤も、この時は、彼の制服のボタンは四つにふえていたが。――
「貴様、そこで何をしていたんだ。」
 三つボタンは、肩をゆすぶりながら、次郎に近づいて来た。
 次郎はきちんとお辞儀だけをした。そして、そのまま默って、睨むように相手の顔を見つめた。
「ふん、知っているぞ。」
 三つボタンは、煙草の吸殻を捨てて、それを靴でふみにじりながら、両腕をくんだ。次郎は、やはりじっと彼を見つめているだけである。
「白状せい、白状せんと、なぐるぞ。」
 三つボタンは、腕組をといて、右手の拳を次郎の顔のまえにつき出した。次郎はそれでもたじろがなかった。そして、いくぶん血の気を失った唇をふるわせていたが、
「僕、何も悪いことなんかしていません。」
 と、食ってかかるように言った。
「何? 悪いことしていない? じゃあ、何でこんなところに一人でいたんだ。」
「用があったからです。」
「何の用だ。それを言ってみい。」
 三つボタンはにやりと笑った。
 次郎には、その下品な笑いが、鉄拳以上の侮辱のように感じられた。彼は返事をする代りに、思わず手を衣嚢《かくし》に突っこんで、小刀《ナイフ》を握った。
 三つボタンは、しかし、それには気がつかないで眼を柵の外に転じながら、
「言えないだろう。中学生が学校の柵の内から、道
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