った浅黒い顔には、頬から顎にかけて一分ほどにのびた髯さえ、まばらに見える。どう見ても恭一の仲間らしくない。彼は、大沢が五年生でないことがわかって急に楽な気持になったが、同時に、何か滑稽なような気もした。
「みんなで僕を親爺って言うんだよ、わっはっはっ。」
 大沢は自分でそう言って、次郎を笑わした。次郎は、それですっかり彼に好感を覚えたらしく、坐りかたまで楽になった。
 三人はそれから、恭一が階下から持って来た煎餅をかじりながら、いろんな話をした。これといってまとまった話題もなかったが、三人とも少しも飽いた様子がなかった。学校の話もおりおり出た。しかし、次郎は、雨天体操場事件について、自分から話し出そうとは決してしなかった。
 おおかた一時間ほどもたったころ、とうとう大沢がたずねた。
「きのうは、どうだったい、雨天体操場では?」
 次郎は大沢には答えないで、恭一の方を見た。そして、
「恭ちゃん、何か聞いた?」
「うむ、きいたよ。もう学校ではみんな知ってるよ。」
「そうか。……だけど、うちじゃ誰もまだ知らんだろう。」
「そりゃあ、知らんだろう。」
「誰にも言わんでおいてくれよ。」
「どうして? いいじゃないか、ちっとも恥ずかしいことなんかないんだもの。」
「父さんだけならいいけど……」
 次郎の気持は、恭一にはすぐわかった。
 しばらく沈默がつづいたが、大沢はにこにこして、
「学校がいやになりゃしない。」
「そんなこと、ありません。」
 次郎は怒ったような調子だった。
「五年生、こわくない?」
「平気です。だって、僕、何も悪いことしてないんだから。」
「僕は五年生に友達がいくらもあるんだが、これからいじめないように頼んでおこうか。」
「馬鹿にしてらあ。――」
 と、次郎は大沢をさげすむように見て、
「そんなこと頼むの、卑怯です。」
「だって、うるさいぜ。今年の五年生には、あっさりしないのが、ずいぶんいるんだから。」
「いいです、うるさくたって、卑怯者になるより、よっぽどましです。」
「そうか。で、どうするんだい、これから?」
「どうもしません。あたりまえにしているだけです。」
「あたりまえにしていても、生意気だって言ったら?」
「しようがないさ。」
「默ってなぐられているんだな?」
「默ってなんかいるもんか。」
「しかし喧嘩したって、かないっこないぜ。それに、あんな連中を相手にしたって、つまらんじゃないか。」
「すると、あいつらにぺこぺこする方がいいんですか。」
 次郎は、もう、食ってかかるような勢いだった。
「だから、ぺこぺこしないでもすむようにしてやろうかって、言ってるんだ。」
 次郎はそっぽを向いて、返事をしなかった。大沢は、恭一と顔見合わせて、微笑しながら、
「負けたよ。今日は次郎君にすっかり軽蔑されちゃった。わっはっはっは。……今日は、ここいらで失敬しよう。」
 大沢が立ちかけると、次郎がだしぬけに恭一に言った。
「僕たち、自分のことっきり考えないのは、いけないことなんだろう。」
「あたりまえじゃないか。」
 恭一は次郎と大沢の顔を見くらべながら、答えた。大沢は立ったまま、それをきいていたが、にっこり笑って、また腰をおちつけた。
「僕だって、なぐられるの、いやだよ。だから、自分のことっきり考えないでいいんなら、五年生のまえで、もっとおとなしくしていたんだよ。」
「じゃあ、どうしておとなしくしていなかったんだい。」
 大沢がはたから口を出した。
「だって、五年生は無茶ばかり言うんです。あんなこと言われて、僕、へこんでいたくないんです。」
「癪にさわったんか。それじゃあ、やっぱり自分のためじゃないか。」
 次郎はちょっとまごついた。しかし、すぐ、一層|力《りき》んだ調子で言った。
「ちがいます。新入生みんなのためです。」
「うむ、新入生のために戦うつもりだったんだね。」
 次郎は、そう言われて、まだ何か言い足りない様な気がした。そしてちょっと考えてから、
「新入生のためばかりではありません。五年生は、ちっとも校長先生の教えを守ってないです。あんな五年生は、僕、学校のためにならないと思うんです。」
「ようし、わかった。」
 と、大沢は、次郎の肩に手をかけて、
「しっかりやってくれ。君は僕たちの仲間だ。しかし、ほんとうの仲間は少いぜ。だから、みんなが一本立ちのつもりでやるより、ないんだ。いいかい。」
 次郎は、あっけにとられたような顔をして、大沢を見つめた。
 大沢は、しかし、そう言ってしまうと、
「じゃあ、失敬。」
 と、二人にあいさつして、さっさと部屋を出て行った。恭一はすぐあとについて、階段をおりた。そして次郎が自分にかえって、急いで下におりた時には、大沢は、もう、門口を出ているところだった。
 大沢を見おくってから、二人はまたすぐ二階に行ったが、次郎は机に頬杖をついて、何かじっと考えこんだ。その様子を見ていた恭一は、しばらくして言った。
「次郎ちゃん、大沢君って、偉い人だと思わない?」
「思うよ。だけど年とっているなあ。」
「中学校にはいる前に、三年も工場で仂いていたんだよ。」
「ふうむ、そうか。」
「だから、よけい偉いんだよ。」
 次郎の頭には、一年おくれて中学校にはいった自分のことが、自然に浮かんで来た。が、彼の考えは、すぐまたもとにもどっていった。
(自分は、大沢に、心にもない偉がりを言ったつもりは少しもなかった。しかし、自分の言ったことに、ほんとうに自信があったかというと、そうでもなかったようだ。)
 彼は何だかそんな気がして、不安だった。しかし、一方では、大沢に励ましてもらったことがうれしくてならなかった。そして、
(これからやりさえすればいいんだ。それで偉がりを言ったことには決してならないんだ。)
 と、自分で自分を励まし、どうなり気持を落ちつけることが出来た。
 二人は、それからも、しばらくは大沢の噂をした。次郎には、「親爺」という綽名が、いかにも大沢にぴったりしているように思えた。そして、そんな友達をもっている恭一を一層尊敬したくなった。同時に、彼の昨日からの気持が次第に明るくなり、これからの闘いが非常に愉快な、力強いもののように思えて来たのである。

    一六 葉書

 花が散り、梅雨《つゆ》が過ぎ、そろそろ蝉が鳴き出す季節になったが、その間、次郎の身辺には、心配されたほどの事件も起らなかった。
 彼は毎日むっつりして学校に通った。
 学課には彼はかなり熱心だった。また、教科書以外の本も毎日いくらかずつ読んだ。たいていは少年向きの雑誌や伝記類だったが、恭一の本箱から、美しく装幀された詩集や歌集などを、ちょいちょい引きだして読むこともあった。むろんそのいずれもが、彼にはまだ非常にむずかしかった。しかし、恭一におりおり解釈《かいしゃく》してもらったりしているうちに、詩や歌のこころというものが、いつとはなしに彼の感情にしみ入って来た。そして、時には、寝床にはいってから、自分で歌を考え、そっと起きあがって、それを手帳に書きつけたりすることもあった。
 恭一は、もうその頃には、詩や歌をかなり多く作っており、年二回発行される校友会誌には、きまって何かを発表していた。次郎には、それが世にもすばらしいことのように思えた。そのために、彼の恭一に対する敬愛の念は、これまでとはちがった意味で深まって行った。が、同時に、彼が、何かしら、恭一に対して妬《ねた》ましさを感じはじめたことも、たしかだった。
(今に、僕だって、……)
 彼は校友会誌に目をさらしながら、おりおり心の中でそうつぶやいた。彼が幼い頃恭一に対して抱いていた競争意識は、こうして、知らず織らずの間に、形をかえて再び芽を吹きはじめているらしかった。
 次郎と詩、――読者の中には、この取合わせを多少滑稽だと感じる人があるかも知れない。なるほど、次郎は、詩を解するには、これまで、あまりにも武勇伝的であり、作為的であったといえるだろう。
 だが聰明な読者ならば、彼のそうした行為の裏に、いつも一脈の哀愁《あいしゅう》が流れていたことを決して見逃がさなかったはずだ。実際、哀愁は、次郎にとって、過去十五年間、切っても切れない道づれであったとも言えるのである。彼の負けぎらい、彼の虚偽《きょぎ》、彼の反抗心と闘争心、およそそうした、一見哀愁とは極めて縁遠いように思われるもののすべてが、実は哀愁のやむにやまれぬ表現であり、自然が彼に教えた哀愁からの逃路だったのである。そして、もし「自然の叡智《えいち》」というものが疑えないものだとするならば、次郎の心がそろそろと詩にひかれていったということは、必ずしも不似合なことではなかったであろう。というのは、何人も自己の真実を表現してみたいという欲望をいくぶんかは持っているし、そして、哀愁の偽りのない表現には、詩こそ最もふさわしいものだからである。
 だが、彼の詩について、これ以上のことを語るのは、今はその時期ではない。何しろ、彼はまだ、歌一首作るにも、指を折って字数を数えてみなければならない程度の幼い詩人だったし、それに、恭一の詩に対してある妬ましさを感じていたとしても、彼の身辺には、詩以上に切実な問題がまだたくさん残されていたからである。
 第一、入学の当初から、五年生の間に「生意気な新入生」として有名になっていた彼は、彼らに鉄拳制裁の口実を与えまいとして、校内では無論のこと、ちょっと散歩に出るのにも、始終頭をつかい、気を張っていなければならなかった。「狐」や「三つボタン」のような上級生に対して、卑屈《ひくつ》にもならず、言いがかりもつけられないようにするには、次郎の苦心も、実際並たいていではなかったのである。彼はちょっと門口を出るのにも、必ず制服制帽をつけていた。街角では、一応四方を見渡して、五年生の姿が見えると、相手がどこを見ていようと、それに対してきちんと敬礼をした。むろん、校則は、どんな些細なことでもよく守った。その点では、人一倍細心な恭一ですら、彼の几帳面《きちょうめん》さをおりおり冷やかしたくらいであった。その代り、彼は、今後五年生に無法な暴行を加えられたら、退学処分の危険を冒しても、思いきって反抗を試みようと、固く心に誓っていた。彼が彼の小刀《ナイフ》を筆入に入れないで、いつも衣嚢《かくし》に入れていたのも、実はそのためだったのである。
 彼は、一年生の全部とはいかなくとも、少くとも彼の組の生徒だけでも、彼と同じ気持になってもらうことを、心から望んでいた。彼はある日、五六名のものに真剣にその気持を話してみた。しかし、誰もが反対もしなければ賛成もしなかった。落第して同じ一年にとどまっていた一生徒などは、嘲るように「ふふん」と答えたきりだった。で、彼はそれっきり、誰にもそのことを言わなくなってしまった。
 何よりも彼がなさけなく思ったのは、彼の同級生が――竜一や源次ですらも――彼と親しくしているところを上級生に見られると、妙にそわそわして、彼のそばを離れようとすることだった。彼はすぐ彼らの気持を見ぬいた。そして心の中でひどく憤慨した。思いきって彼らを面罵してやろうかと思ったことさえ何度かあった。しかし彼はいつもそれを思いとまった。
(五年生に口実を与えてはならない。)
 それが、その頃、彼の行動を左右する第一の信条だったのである。
 こうして、彼は、彼の同級生の間に、一人として心の底から交わりうる新しい友人を見出さなかった。そればかりか、竜一や源次ですら、もう彼にとっては、心からの親友でも、従兄でもなくなったのである。むろん、小学校時代に培われた温い感情が、そう無造作に冷めてしまうわけはなかった。で、次郎の彼らに対する気特には、他の同級生に対するのとは、まだかなりちがったところがあり、また、彼が土曜から日曜にかけて彼らの家を訪ね、見たところ以前と少しも変らない親しさで遊んだりすることもしばしばだったが、そうしたことは、所詮《しょせん》、過去の酒甕《さかがめ》からしたたって来る雫《しずく》のようなもので、彼の注意
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