どすばしこい奴だな。」
「狐もさすがに面喰ったろう。」
「少々てれているらしいよ。」
「いい気味だ。あいつも、たまにはそんな目にあう方がいいだろう。」
「しかし、今年の五年生もそれで台なしだな。しょっぱなから、しかも新入生に対して味噌をつけたんでは。」
「少々気の毒になってくるね。」
「しかし、頭の悪い奴ばかりそろっているんだから、それがあたりまえだろう。」
「そんなこと言ってるが、来年はいよいよ僕たちの番だぜ、自信があるかね。」
「あるとも。われわれはもっと堂々たるところを見せてやるさ。少くとも、狐の奴みたいな、へまはやらんよ。あいつ、自分からわな[#「わな」に傍点]に飛びこんだようなものだからね。」
「狐がわな[#「わな」に傍点]に飛びこんだって! そいつは面白い。いったいどうしたっていうんだい。」
「何でも、新入生に対して、上級生が訓戒をしているのに、地べたばかり見て聴いているのは無礼だとか言ったそうだ。」
「なるほど、それではそのちびの新入生が狐の顔を穴のあくほど見つめていたっていうわけか。」
「そうだよ。だから、狐としては、それを生意気だとは、どうしても言えんわけさ。」
「それを生意気だって難癖をつけたとすると、五年生も実際へまをやったもんだ。頭の程度がうかがわれるよ。」
「そこで、四年生の責任いよいよ大なり、だね。」
 みんなは愉快そうに笑った。四年生と五年生とのそりがあわないのは、毎年のことだが、今年の五年生には、とくべつ無茶な連中が多いので、四年生の反感もそれだけ大きいのだった。
「それにしても、そのちびの新入生って、痛快な奴だな。」
「うむ、しかし相当生意気な奴にはちがいないよ。」
「生意気でも、そのぐらい勇敢だと頼もしいじゃないか。入学早々、五年生全部を向こうにまわして悠々たる態度を見せるなんて、この学校としても、全く歴史的だよ。」
「歴史的とは驚いたね。はっはっはっ。」
「いったい、何というんだい、そいつの名は?」
「本田とか言ってたよ。」
 恭一は、それまで大した興味もなく、はたで聞いていたが、本田という名が出ると、ぎくっとして眼を見張った。
「そうだ、本田次郎っていうんだそうだ。」
「どこの奴かね。……おい、本田君、知らんか。君と同姓だが。」
 みんなは一せいに恭一を見た。恭一の青ざめた顔は、今度は急に赧くなった。
「まさか、君の弟じゃないだろうな。」
 他の一人が追っかけるようにたずねた。
「次郎だと、弟だが……」
 恭一は、やっと答えて、眼をふせた。
「弟? そうか。そう言えば、今度君の弟が入学試験をうけるって、いつか言っていたようだね。」
「しかし、本田の弟にしちゃあ、すごく勇敢だね。ふだんから、そうなんか。」
 恭一はまた顔を赧らめたが、
「うむ、小さい時から乱暴だったよ。しかし、この頃はそうでもなかったんだが……」
「それで、その次郎君、どうしていたんだ、昨日は?」
「べつに何ともなかったよ。」
「君に、その話、しなかったんか。」
「ううん、ちっとも。……僕も君らの話をきいて、今はじめて知ったんだよ。」
「そうか。そうだと君の弟はいよいよ変った奴だな。」
「本田の手には負えんのじゃないかね。」
「だいいち、弟の方が本田を相手にしていないのだろう。」
 みんながどっと笑った。恭一はてれくさそうに苦笑して、顔をふせた。
「冗談はよそう。……どうだい、本田、君の弟ってのは、いったい、物がわかる方なのか、それとも、ただの向こう見ずか。」
 そう言って、まじめにたずねたのは、大沢雄二郎という生徒だった。彼は、小学校を出てから三年も町の鉄工場で仂いたあと、ある人に見込まれて中学校にはいることになったので、全校一の年長者だった。どっしりと落ちついて、思いやりがあり、しかも頭がいいので、「親爺《おやじ》」という綽名《あだな》でみんなに親しまれていた。とりわけ恭一は彼に親しんだ。親しんだというよりは、心から尊敬していたといった方が適当かも知れない。性格はまるでちがっていたが、物の考え方はいつも同じで、しかも世間を知っているだけに、大沢の方にずっと深みがあった。大沢の方でも恭一を真実の弟のように愛した。日曜などには、二人は、終日、人生観めいたような話をして暮すこともあった。
「物はわかる方だと思うがね。」
 恭一は、多少みんなに気兼ねしながら答えたり
「もの事をよく考える方かね。」
「うむ、去年一度入学試験で失敗したんだが、それから一年ばかり、しょっちゅう、いろんなことを一人で考えていたようだ。」
「僕、いっぺんも会ったことがないようだね。君の家でも。」
「ずっと田舎の親類の家にいたもんだから……」
「そうか……。」
 大沢は何か考えるふうだったが、それっきり口をつぐんだ。すると、ほかの一人が言った。
「どうだい、本田の弟だったら、これから狐なんかにいじめられないように、四年生でバックしてやろうじゃないか。」
「よかろう。」
 すぐ賛成者があった。
「どうせやる以上は、堂々の陣《じん》を張って、だらしのない今度の五年生を反省させるところまで行くんだな。」
「むろんだ。個人の問題じゃつまらんよ。」
「しかし、そうなると、いよいよ四年対五年の対立になるが、それでもいいかね。」
 と自重論が出て来た。
「かまうもんか、これも校風|刷新《さっしん》のためだ。」
「しかし、下級生をバックして五年生に対抗するのは、やぶ蛇だぜ。来年は僕らが五年生だからね。」
 と、今度は伝統尊重論があらわれて来た。
「そんな馬鹿なことがあるもんか。われわれの護《まも》りたいのは正義だ。正義のあるところには必ず秩序が保たれる。正義は秩序に先んずるんだ。」
「秩序を破って、正義がどこにあるんだ。」
 そこいらまでは、さほど真剣だとも思われなかった議論が、当面の問題をはなれて次第に観念的になるにつれて、かえってみんなの調子が烈しくなって来るのだった。
 大沢は、しばらくは、にこにこしてそれを聴いていたが、そろそろみんなが喧嘩腰になって来たのをみると、だしぬけに怒鳴った。
「よせ! そんな議論をしたって、なんの役に立つんだ。」
 それから恭一の方を見て、
「本田はどうだ。四年生にバックしてもらいたいのか。」
「僕は、いやだ。」
 恭一は、唇のへんを神経的にふるわせながらも、きっぱりと答えた。
「そうだろう。僕も四年生全体の名でバックするのは不賛成だ。」
 大沢はゆったりとそう言って、みんなを見まわした。
「どうしてだい。」
 と、最初の提案者《ていあんしゃ》が、ちょっと間をおいて、たずねた。それはいかにも自信のないたずねようだった。
「本田の弟を侮辱したくないからさ。」
 みんなは、それで默りこんだ。すると大沢は恭一を見ながら、
「しかし、本田、このまま放っとくと危いぜ。ことに狐の奴と来たら執念《しゅうねん》深いからな。頬ぺたを下級生にひっかかれて默っちゃおらんだろう。」
「僕もそうだろうと思うが……。」
 恭一はいかにも不安そうな顔をしている。
「だから、陰ながらバックしてやるさ。僕だって、それはやるよ。五年生にも話せばわかる奴はいるんだから、狐だけぐらいは何とか手出しさせんですむかも知れん。……四年生全体がバックするなんて言うと、大げさになるし、そうなると、五年生だって負けてはいないだろう。それでは学校が大騒ぎになる上に、君の弟のためにもかえって悪いよ。四年生に侮辱された上に、五年生全体にいじめられることになるんだからね。……どうだい、諸君、みんながそのつもりで、目立たないように本田の弟をバックしてやろうじゃないか。」
 方々で賛成の声がきこえた。
「なるほど、そいつは名案だ。そんな工合にやると、五年生に対して自然四年生の権威を示すことも出来るわけだ。」
 誰かがそんなことを言った。
「おい、おい――」
 と、大沢はその生徒を見て、
「そんなけちなことを考えるのは、よせ。僕らは、四年とか五年とかいうことにこだわる必要はないんだ。それよりか、一年から五年までの正しい生徒が、縦《たて》に手を握りあうことが大切じゃないか。本田の弟も、その正しい生徒の一人だ。だから僕らはそれをバックしようと言うんだ。……四年生にだって、つまらん奴はいくらも居る。――僕らは――少くとも僕だけは――そんな奴とは手を握りたくない。そんな奴と手を掘って、五年生に対抗したって、それが何になるんだ。」
 彼は、いつの間にか、演説でもするような態度になって、つづけた。
「元来、正義は階級にあるんじゃないんだ。どんな階級にだって、正しい人もいれば、正しくない人もいる。正義は、それをもっている一人一人の胸にしかないんだ。五年生は五年生なるが故に正義の持主ではない。同様に僕らも、四年生なるが故に正義の擁護者だと主張するわけにはいかない。四年生とか五年生とかいうことは、要するに正義とは何の関係もないことなんだ。それをいかにも関係があるかのように思いこんでいるところに、この学校の病根があり、校風のあがらない大きな原因があるんだ。この学校では、上級の名においていつも正義が蹂躙《じゅうりん》されている。現に本田の弟の場合がそれだ。僕はもう一度はっきり言う、正義は階級になくて人にあるんだ。もしそうでなければ、全校一致も期待出来ない。それが期待出来るのは、正義が階級の独占物《どくせんぶつ》でなくて、何人の胸にも宿りうるからだ。だから僕は、同級生の団結よりも、正しい人の団結が先ず必要だと思う。僕は四年生を愛し、五年生を憎むために、本田の弟をバックしようと言うんじゃない。僕は学校全体を愛するんだ。学校全体の正義を愛するんだ。そのためには、本田の弟のような、不正に屈しない魂をあくまでも擁護しなければならんのだ。問題は、四年生の権威がどうの、名誉がどうのというような、そんなけちけちしたことにあるんじゃない。大垣校長の謂《いわ》ゆる大慈悲の精神に生き、全校の正義を護ろうと言うんだ。おれの言ったことを誤解せんようにしてくれ。」
 大沢にしては、めずらしく激越な調子だった。みんなは鳴りをしずめて聴いていた。
 誰よりも感激したのは、恭一だった。正義感の鋭いわりに、気の弱い彼は、大沢のこの言葉で、力強い支柱を得たような気がした。彼は、何よりも、それを次郎のために喜んだ。そして、その日の授業が終るまでに、彼は、次郎の生い立ちや、彼自身の次郎についての考えなどを、何もかも、大沢に打ち明けた。
 大沢は、恭一の話をきいているうちに、いよいよ次郎に興味を覚えたらしかった。彼は最後の、授業が終ると、言った。
「さっそく会ってみたくなったね。今日、君の家に行ってもいいかい。」
「いいとも。今からいっしょに行こう。」
「よし行こう。しかし、僕らがバックする話は秘密だぜ。うっかりしゃべらんようにしてくれ。」
「うむ、わかってるよ。」
 二人は校門を出てからも、しきりに次郎のことを話しながら歩いた。
 二人よりもちょっとまえに、次郎も帰って来ていた。彼はもう机について、日記か何かをしきりに書いていたが、恭一のあとから大沢がはいって来たのを見ると、思わずいやな顔をした。五年生にしても老《ふ》けている大沢の顔付や、その堂々たる体格が、恭一の同級生だとは、彼にはどうしても思えなかったのである。彼の頭には、すぐ雨天体操場の光景が浮かんで来た。山犬や、狐や、三つボタンの仲間ではあるまいか。そう思うと、恭一がそんな生徒をつれて来たのが、腹立たしい気がした。彼は、しかし、仕方なしに、大沢に向って窮屈そうなお辞儀をした。
 大沢は「やあ」とお辞儀をかえして、あぐらをかきながら、
「次郎君だね。」
 と、恭一にたずねた。
「うむ。」
 次郎の神経は敏感に動いた。
(二人は、自分のことを、もう何か話しあったにちがいない。)
 彼は、そう思うと、同時に大沢の襟章に注意した。それは四年の襟章だった。彼は、おやっ、という気がした。
「大沢君っていうよ。僕の親友で、同じクラスなんだ。」
 恭一にそう言われて、次郎はあらためて大沢を見た。張りき
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