じも起らなかった。
 雨天体操場までは、渡り廊下づたいで、かなり遠かった。次郎たちの組がついた時には、他の組の新入生たちは、もう、きちんとその中央にならばされていた。次郎たちは三つボタンの五年生の指揮で、その左側に四列縦隊にならんだが、トタン屋根をふいただけの、壁も何もない広々とした土間が、次郎には何か物凄く感じられた。
 それまで、あちらこちらに散らばっていた五年生たちは、新入生の整列が終ったと見ると、急にそのまわりをぐるりと取りまいた。それは、ちょうど地曳網《じびきあみ》をおろしたといった恰好であった。
 それが終ると、体操の指揮台のうえに、一人の五年生が現れた。三つボタンとはちがって、非常に品のいい、聡明そうな顔つきをしている。彼は、かくしから小さな紙片を取り出し、割合しずかな調子で演説をはじめた。
 演説の内容は、次郎にはよくわからなかった。言葉の言いまわしが変にこみ入っている上に、まだ聞いたことのない漢語が多過ぎたのである。しかし、悪いことを言っているようには、ちっとも思えなかった。
「校風は愛と秩序によって保たれる。上級生は愛を以て下級生に接するから、下級生は秩序を重んじて上級生に十分の敬意を払ってもらいたい。」
 だいだいそんなような意味に受取れた。そして最後に、
「以上、五年生を代表して、新入生諸君に希望を述べた次第である。」
 と言って、その生徒は指揮台をおりた。次郎はそれで万事が終ったつもりになって、ほっとしていた。
 ところが、それからあとが大変だった。そのつぎに指揮台の上にあらわれたのは、見るからに獰猛《どうもう》な山犬のような顔の生徒だった。そして、「貴様たちの眼付が、第一横着だ。」とか、「新入生のくせに、もう肩をいからしている奴がある。」とか、「講堂で五年生の方をぬすみ見ばかりしていたのは誰だ。出て来い。」とか、まるで酔っぱらいと気違いとをいっしょにしたような声でどなりはじめた。しかも、それを声援する役目を引きうけたのが地曳網の連中である。「そうだ!」――「その通りだ!」「引きずり出せ」――「ぶんなぐっちまえ!」
 そうした声が、横からも、うしろからも、新入生たちの耳をつんざくように襲い、それがトタン屋根に反響して異様なうなりを立てた。
 新入生たちの中には、もう誰も顔をあげている者がなかった。次郎は脊《せい》が低くて、しかも組の中では右側の前から十番目ぐらいのところにいたので、五年生に顔を見られる心配は比較的少かったが、それでもひとりでに頭が下っていた。で、もし、そんな狂気じみた状態が、そう長くつづかなければ、べつに大したこともなしに済んでいたかも知れなかったのである。
 ところが、その獰猛な顔が引っこんだらしいと思うと間もなく、今度は癇《かん》の強い声が指揮台から聞え出した。新入生たちはちょっと顔をあげてその声の主をぬすみ見た。それは凄いほど眼の光った、青白い狐みたいな額の男だった。この男は、いかにも皮肉な調子で、ゆっくり、ゆっくり、新入生に難癖をつけはじめた。そして前の獰猛な顔の男とはちがって、地曳網の連中の声援があるごとに、それがひととおり終るのを、一種の余裕をもって待っているかのようであった。
 そのうちに時間は三十分とたち、四十分とたって行った。次郎は次第にいらいらして来た。そしてたまらないほどの憎悪の念が腹の底からこみあげて来るのを覚えた。それでも、歯を食いしばって我慢していたが、指揮台の狐は、新入生を見渡しながら、つぎつぎにいろんな難癖の種をみつけ出して、いつまでもねばっていた。そして、しまいには、とりわけ皮肉な調子で、こんなことを言った。
「上級生が訓戒をしてやっているのに、君らは地べたばかりを見ている。それを無礼だとは思わんか。」
 これには、地曳網の連中も、さすがに意想外だったらしく、すぐには声援が出来なかった。しかし一人が思い出したように、「そうだ失敬千万だ!」と言うと、つぎつぎに、「こいつら、聞いちゃおらんぞ」とか「上級生を馬鹿にするにもほどがある」とか、いろんな罵声《ばせい》が方々から起って来た。
 新入生たちは、おそるおそる顔をあげた。しかし、みんな眼のつけどころに困っているようなふうだった。その中で、次郎一人だけが、わざとのように首をのばし、狐の顔をまともに睨んでいた。
 しばらく沈默がつづいた。狐は新入生たちの顔を一人一人丹念に見まわしていたが、次郎の眼に出っくわすと、その視線はぴったりとそこでとまった。つぎの瞬間には、彼の頬に、つめたい微笑が浮かんだ。微笑が消えたかと思うと、彼の癇《かん》走った声がトタン屋根をびりびりとふるわすように響いた。
「おい、そのちび! 貴様はよっぽど生意気だ。出て来い!」
 次郎は動かなかった。そして彼の眼は依然として狐を見つめたままだった。
「出て来いと言ったら、出て来い!」
 もう一度狐が叫んだ。しかし次郎はびくともしなかった。
「上級生の命令をきかんか! ようし!」
 狐は、そう叫んで指揮台を飛びおりると、新入生の列を乱暴に押しわけて、次郎に近づいた。そして、いきなり彼の襟首をつかみ、引きずるようにして、彼を指揮台のまえにつれて行った。すると、ほかの五年生が四五名、ぞろぞろとそのまわりによって来た。その中には、最初演説した生徒や、獰猛な山犬の顔は見えなかった。しかし、その代り、三つボタンが恐ろしい眼をして彼を見据えていた。
「名は何というんだ。」
 狐がたずねた。
「本田次郎。」
 次郎はぶっきらぼうに答えた。
「ふむ、生意気そうだ。」
 三つボタンがはたから口を出した。
「貴様はさっき俺を睨んでいたな。」
 狐が今度はうす笑いしながら言った。
「見てたんです。」
「何? 見ていた!」
「ええ、見てたんです。地べたを見るのは無礼だって言うから、顔を見てたんです。」
「理窟を言うな!」
 鉄拳が同時に次郎の頬に飛んで来た。しかし、次郎の両手が狐の顔に飛びかかったのも、ほとんどそれと同時だった。
 それからあと、次郎は何が何やらわからなかった。ただ真っ黒なものが周囲をとりかこみ、そこから手や足が何本も出て、自分のからだを前後左右にはねとばしているような感じだった。
「もう、よせ! もうこのくらいでいいんだ。」
 山犬の声に似たどら声がきこえて、彼の周囲が急に明るくなったと思った時には、彼は地べたに横向きにころがっていた。彼の顔のまんまえには、ペンキのはげた指揮台が、二つ三つ節穴を見せて立っていた。
 彼は、じっと耳をすました。
「馬鹿な奴だ。」
 そんな声がどこからかきこえた。
 彼は、その声をきくと、無意識に起きあがった。そして、くるりと向きをかえて新入生の方を見た。彼はもうすっかり落ちついていた。新入生たちは、みんな青い、おびえきったような顔をして、彼を見ていた。その青い顔の両側に、五年生たちが、にやにや笑って立っているのが、はっきり見えた。
 次郎は、その光景を見ると、これからどうしたものかと考えた。もとの位置に帰る気には、とてもなれなかった。かといって、いつまでもそのまま立っているわけには、なおさらいかない。彼は、しばらく、じろじろと周囲を見まわしていたが、ふと目のまえに、ふみにじられたようになってころがっている帽子が眼についた。それは、彼がついこないだ父に買ってもらったばかりの、そして、きのうはじめて、組主任の先生に渡された新しい徽章をつけたばかりの、彼の制帽だった。
 彼は思わずかっ[#「かっ」に傍点]となった。同時に、鼻の奥がすっぱくなって、そこから、熱いものが眼の底にしみて来るような気がした。しかし、彼は唇をゆがめてじっとそれをおさえた。そして、しずかにその帽子を拾い、ていねいに形を直し、塵《ちり》をはらってそれをかぶると、そのままさっさと渡り廊下の方に向かって歩き出した。
「こらっ! どこへ行くんだ!」
 五年生の一人が叫んだ。それは三つボタンらしかった。次郎は、しかし、ふり向きもしなかった。
「あいつ、いよいよ生意気だ!」
「このまま放っとくと、上級生の権威《けんい》にかかわるぞ!」
「つかまえろ!」
 五年生全体がざわめき立っているのをうしろに感じながら、次郎はもう渡り廊下を二三間ほども歩いていた。
 彼は、そこで、ちょっとうしろをふりかえってみた。すると雨天体操場の中から無数の視線がまだ自分を覗《のぞ》いており、その視線の一部を遮って、二人の五年生が入口の近くに向きあって立っているのが見えた。その一人は三つボタンであり、もう一人は最初に演説した生徒だった。
 次郎は、三つボタンが自分を追っかけるのを、演説した生徒がとめているんだな、と思いながら、足を早めた。
 次郎が本校舎の前まで来ると、ちょうど職員会議が終ったところらしく、先生たちがぞろぞろと玄関から出て来るところだった。彼は先生たちに顔を見られるのがいやだったので、校舎の陰にかくれて、人影の見えなくなるのを待つことにした。
 その間に、彼は、自分の着物――制服が出来るまで和服に袴《はかま》だった――が破けていないかをしらべてみた。不思議にどこにも大した破損はなかった。ただ袴の右わきに二寸ばかりの綻びがあるだけだった。時間割をうつすために持って来ていた手帳と、父に買ってもらった蟇口とを懐に入れていたが、それらは無事だった。
 肩や腿《もも》のへんに二三ヵ所|鈍痛《どんつう》が感じられ出したが、次郎はほとんどそれを気にしなかった。彼が最も気にしたのは、頬がはれぼったく感ずることだったが、手でさわってみると、さほどでもないらしいので安心した。
(これなら大丈夫、自家《うち》で気がつく人はない。)
 そう思って、門の方をのぞいて見ると、もう人影は見えなかった。彼は思いきって立ち上り、あたりに注意を払いながら門を出た。
 門を出ると、無念さが急にこみあげて来て、涙がひとりでに頬を流れた。だが、同時に、不正に屈しなかったという誇りが、彼の胸の中で強く波うっていた。彼の涙はすぐとまった。彼は一人で歩きながら、少しも淋しいという気がしなかった。「武士道」――「慈悲」――今日講堂で見たり聞いたりしたそんな言葉が、いつの間にか思い出されていた。そして、「慈悲」という言葉は、もう正木のお祖母さんを思い出させるような、そんなやさしい言葉ではないように思われて来た。
「涙のある人間だけが、すべてを支配することが出来るんじゃ。」
 大垣校長の言ったそんな言葉が、今更のように強く彼の胸にひびいて来た。
 歩いて行くうちに、山犬や、狐や、三つボタンのいやな顔がひとりでに思い出された。しかし彼はもう、それらをちっとも怖いとは思わなかった。それどころか、彼らのまえに青い顔をして並んでいた新入生達のことを思うと、一種の武者ぶるいみたようなものを総身に感ずるのだった。
 家に帰ると、彼は何事もなかったような顔をして、すぐ机のまえに坐った。そして、懐から手帳と蟇口とを出して、それを抽斗《ひきだし》にしまいこんだが、つい今朝まで、何かしらまだ気がかりになっていたその蟇口も、もう全く問題ではなくなっていた。
 彼の人生は、中学校入学の第一日目において、すでに急激な拡がりを見せていたのである。

    一五 親爺

 雨天体操場事件は、翌日になると、もう全校生徒の噂の種になっていた。恭一の教室でも、始業前からその話でにぎやかだった。
「その新入生、ちびのくせに、いやに落ちついていたっていうじゃないか。」
「五年生の方が、かえって気味わるがっていたそうだよ。」
「まさか。」
「いや、ほんとうらしい。さんざんなぐられていながら、涙一滴こぼさないで、じろりとみんなを睨みかえして、悠々《ゆうゆう》と帽子の塵をはらって出て行った様子は、ちょっと凄かったって言っていたぜ。」
「それよりか、狐の奴がその新入生に頬ぺたをひっかかれたって、ほんとうかね。」
「それはたしかだ。」
「何でも最初になぐったのは狐だそうだが、なぐったと思った時には、もう頬ぺたをひっかかれていたそうだ。」
「その新入生、よっぽ
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