ことにした。
 絵はがきはまだ六枚あまっていた。彼は、それを全部、彼がこれまで比較的親しくしていながら、いっしょに中学校に受験出来なかった友達にあてて出すことにした。それには、「はなれていても、いつまでも仲よくしたい。そしてお互いに正しい勇気のある人間になろう」といったような意味のことを書いた。書き終ると彼はすぐ郵便局に行った。
 切手代を払うために蟇口をあけた瞬間、彼はまた、さっきの父の言葉を思いおこした。
「なくなったら、母さんにそう言えばいい。」
 彼は何度もそれを心の中でくりかえしながら、ふたたび自分の机のまえに帰ってきた。
 恭一は、その日、何か友達に約束があるからと言って、次郎の成績がわかったあと、すぐどこかに出かけていったが、夕方帰って来るとお祖母さんに向かって、しきりに次郎の入学祝いにご馳走をするように主張した。お祖母さんはそれに対して、
「今日でなくてもいいじゃないかね、もうおそいのだから。あすはお祖母さんが赤飯でも炊く心組でいたんだよ。」
 と、いくぶん恭一をなだめるような調子だった。
 すると恭一は今度はお芳の方を向いて、いかにも詰問するように言った。
「母さんも、あすの方がいいと思ってるんですか。」
 お芳は、例の笑くぼをかすかにゆがませ、お祖母さんの顔をうかがったきり、返事をしなかった。
「じゃあ、もういいんです。」
 恭一は、捨台詞《すてぜりふ》のようにそう言って、すぐ二階にかけあがった。
 二階では、次郎が一人、蟇口を机の上において、ぽつねんと坐っていたが、恭一の顔を見るとすぐ言った。
「僕、今日、父さんにこの蟇口を買ってもらったよ。」
「ふうん、小遣も入れてもらったんかい。」
「うむ、一円だけ。」
「一円じゃあ、雑誌なんか買ったら、すぐなくなっちまうよ。それでひと月分だって言ったんかい。」
「ううん、二円ぐらいはつかってもいいんだって。」
「二円ならまあいいや。それで、あと一円は、いつくれるんだい。」
「この金がなくなったら、母さんにそう言ってもらうんだって。」
「ふうん――」
 恭一は解《げ》せないといった顔だった。
「恭ちゃんは誰にもらってるの?」
「父さんでなけりゃ、お祖母さんさ。お金を母さんにねだるのはいけないよ。」
「どうして。」
「だって、うちの会計はまだお祖母さんがやっているんだろう。僕、それは母さんがやるのがほんとうだと思うんだけど、仕方がないさ。」
 次郎はあらためて自分の蟇口を見た。そして、その蟇口をとおして、父と母と祖母との心を、また自分自身のこれからの生活の一部を、はっきり見ることが出来たような気がした。

    一四 ふみにじられた帽子

 次郎が、中学校入学式で講堂にはいった時、まず第一に眼についたのは、正面右側に掲げてある、すばらしく大きな額だった。それには「進徳修業」の四字が、まるで箒の先ででも書いたように、乱暴にならんでいた。次郎は、ただその大きさと乱暴さとに驚いただけで、ちっともいい字だとは思わなかった。
(どうして、こんな乱暴な字を額になんかしてあるんだろう。)
 彼は、そう思って、すぐ眼を左の方に転じた。
 左正面にも、同じ大きさの額がかかっていた。しかし、それには、平仮名まじりの文章が四箇条ほど箇条書きにしてあったので、さほど大きくは見えなかった。字もていねいだった。書体は少しくずしてあったが、次郎にも読めないほどではなかった。彼は、他の新入生たちが何かこそこそ囁きあっているひまに、念入りにそれを読んでみた。文句は次のとおりであった。
一、武士道に於ておくれ取り申すまじき事
一、主君の御用に立つべき事
一、親に孝行仕るべき事
一、大慈悲をおこし人の為になるべき事
 次郎は、武士道という言葉の意味を、はっきりとは知っていなかった。しかし、第一条はよくわかるような気がした。第二条と第三条とは、これまで修身の時間で十分教わって来たことだし、べつに珍しいとも思わなかった。親孝行のことを、自分の境遇にあてはめて考えてみようという気にも、まるでならなかった。ただ、この二箇条をなぜはじめの方に書いてないのだろう、と、それがちょっと不思議に思えた。
 第四条の「慈悲」という言葉が、妙に彼の心をとらえた。彼はその言葉の意味を「武士道」という言葉の意味以上に知っていたわけではなかったが、その字を見た瞬間、すぐ正木のお祖母さんのことを思い起したのだった。
「慈悲深い方だ。」――「仏様のような方だ。」
 これが正木のお祖母さんの噂をする時に、村人たちがいつも使う言葉だったのである。
 次郎は、何度も大慈悲の一条をよみかえした。そして、正木のお祖母さんが、自分や、家庭の者や、村人たちに対して、言ったりしていたことを、いろいろと回想してみた。そのうちに、彼は、嬉しいとも淋しいともつかぬ、妙な感じに襲われて来た。そして、それからそれへと連想がつづいて、正木のお祖母さんとお墓詣りをしたことから、ついには、亡くなった母の顔までが思い出されて来るのだった。
 左側の窓の上の壁には、一間おきぐらいに大きな油絵がかかっていた。それは、すべて、郷土出身の維新当時の偉人の肖像画だった。次郎は、見るともなくそれを見ているうちに、その下に、新入生の父兄たちが、顔をずらりとならべているのに気づいた。次郎は、すばやく、その中に父の顔を見つけた。父も彼を探していたらしく、視線がすぐぶっつかった。次郎は少し顔を赧らゆて、眼をそらし、今度は右の方を見た。
 右側の壁には、軍人の写真の額が一尺おきぐらいにかかっていた。次郎は、多分学校出身の戦死者の額だろうと思い、いちいちその下に書いてある名前を見たいと思ったが、自分の位置がずっと左側になっていたので、よく見えなかった。
 やがて、型どおりの式が進んで、校長の訓辞がはじまった。
 校長は、五分刈で、顎骨の四角な、眼玉の大きい、見るからに魁偉《かいい》な感じのする、五十四五歳の人だった。いくぶん中風気味らしく、おりおり顎や手が変にふるえていたが、その大きな眼玉からは、人を射るような鋭い光が流れており、しかも、その中に、どこか人の心をひきつけるようなやさしさが漂っていた。
 次郎は、校長が壇に立った瞬間から、何かしら、気強い感じがした。
「私が本校の校長、大垣洋輔じゃ。」
 校長はまずそう言って口を切った。訓辞は、そう永くなかった。
「君らは日本の少年の中の選士である。選士に何よりも大切なのは、へりくだる心と慈悲心でなければならない。そういう心をもった人だけが、ほんとうに正しい努力をする。正しい努力をする人だけが、ほんとうに伸びる。伸びる人であってこそ真の選士といえるのだ。……傲慢な人や、無慈悲な人には正しい努力がない。そういう人は一見強そうに見えて弱いものだ。それは生命の伸びる力がとまっているからだ。君らは決してそんな人間になってはならない。学問においても心の修養においても、伸びて伸びやまない人間になってもらいたい。それでこそ日本が伸びるのだ。へりくだる心、慈悲心、そして伸びる日本。――諸君を迎える私の第一の言葉はこれである。」
 だいたいそういった意味のことであった。それでも、二三の実例をあげてわかりやすく話したので、十四五分間はかかった。そのあと校長は、父兄の方に向かって自分の教育方針を話し、それで式は終った。
「りっぱな校長先生だな。」
 式がすんで、校門を出ると、俊亮は次郎を顧みて何度もそう言った。次郎は嬉しかった。

     *

 翌日はさっそく始業式だった。
 次郎が驚いたことには、組主任の先生に引率されて講堂にはいると、新入生の坐るすぐ右側の席に、もう五年生らしい生徒が高い塀のように並んでおり、その多くが、気味のわるい眼付をして、じろりじろりと新入生たちを睨めまわしていることだった。
 次郎は、席につくと、頸をちぢめ、そっと隣の新入生にたずねた。
「僕たちの右の方に並んでいるの、五年生?」
「そうさ、五年生だよ。五年生の右が四年生で、三年生と二年生とが僕たちのうしろに並ぶんだよ。この学校では、一学期の始業式には、新入生との対面式があるんだから、いつもそうだってさ。」
 隣の新入生は、いかにも物|識《し》り顔に答えた。次郎は、なぜかいやな気がして、それっきりうつむいてばかりいた。
 やがて先生たちの顔がそろい、最後に校長がはいって来て、すぐに壇上に立った。そして、一同の敬礼をうけると、
「唯今より、二年以上の生徒と、新入学生との対面式を行う。」
 と言った。
 対面式は、べつに面倒なものではなかった。一年が右に、四年五年が左に、それぞれ向きをかえ、二年三年はそのままで、体操の先生の号令で、同時に敬礼をしあうだけだった。しかし、次郎の気持をいよいよ不愉快にしたのは、すぐ眼の前の五年生が、号令では頭を下げないで、一年生が顔をあげた頃になって、やっとばらばらに、礼を返したことだった。しかも、その顔付は、礼を返しているというよりも、あざ笑っているといった方が適当であった。
 対面式がすむと、校長の始業式の訓話が始まった。まず新入生の方を向いて、上級生に兄事する心得を説いたが、それはほんの二三分で、校長の顔はいつのまにか五年生の方を向いていた。顔が五年生の方に向くと同時に、言葉の調子も高くなり、その眼付も光って来た。そして、
「どんなわずかな力でも、それを不正なことに使ってはならない。不正なことというのは慈悲心のない行いじゃ。武士道におくれをとらないというのも、慈悲心が内にみなぎっていてはじめて出来ることで、それがなくては、武士道も何もあったものではない。よろしいか。本校の生徒はみんな涙のある人間になってくれ。涙のある人間だけが、すべてを支配することが出来るんじゃ。」
 と、演壇の端まで乗り出して来て言った時には、もうどう見ても、五年生にだけ話しているとしか思えなかった。
 その時、五年生の中にはごく少数ではあったが、お互いに顔を見合って、変ににやにやしたり、傲然とのび上って、校長の顔をにらみ返すようなふうをしたりする者があった。次郎は、横からでよく見えなかったが、出来るだけ五年生の表情に注意していた。そして、何かしら、不安なものを胸の底に感じた。
 式がすんだあと、教室で組主任からこまごまと注意があった。それでその日の予定は終りであった。ところが、組主任の先生は、自分の注意が終ったあと、気の毒そうな顔をして言った。
「五年生たちが、校風をよくするために、君らに雨天体操場に集まってもらって、何か話したいと言っている。これは毎年の例だ。間もなく誰かが迎えに来るだろうから、しばらくここで待っていてもらいたい。自分は今から職員会議があるから、その方に行く。」
 そう言って先生はすぐに出て行った。残された新入生たちは、おたがいに顔を見合わせて默りこんだ。間もなく、五年生らしい生徒が、二人で、のっそり教室にはいって来たが、その一人は教壇に立って、じろじろとみんなを見まわした。人相がよくないうえに、制服のボタンが、五つのうち三つしかついていない。しかも一番上のと一番下のとがはずれていて、垢じみたシャツが上下からのぞいているのが、いかにもきたならしく見える。次郎は軽蔑したい気持になって来た。
 と、だしぬけにその生徒がどなった。
「上級生に対して尊敬の念を持たない奴は、顔を見るとすぐわかるぞ!」
 次郎は、あぶないところで冷笑を噛みころした。
「立て! 俺について来い!」
 その生徒はまたどなった。そして肩をいからしながら教壇をおりて、廊下に出た。
 新入生たちは、ぞろぞろと、しかし、何となくおたがいに先をゆずりたがっているようなふうで、そのあとについた。誰の口からも、囁き一つもれなかった。
 もう一人の五年生は、みんなが教室を出るのを、入口に立っでじっと見ていたが、最後の一人が出てしまうと、默ってそのあとについた。この生徒の制服にはボタンが五つともそろっており、顔付もおとなしそうだった。次郎は、教室を出しなに、ちらと彼の顔をのぞいたが、べつに不愉快な感
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