彼の思いもよらないことだったのである。
権田原先生は、彼のまごついている眼を見|据《す》えながら、
「お前は多分、青年たちになぐられたお前の友だちや、その姉さんのために、仇を討ってやったつもりでいるんだろう。」
次郎は、うっかり「そうです」と答えるところだった。ところが、権田原先生は急に言葉の調子を強めて言った。
「だが、それもうそだ。お前の本心はそうじゃなかったはずだ。」
これも次郎には意外だった。今度は、あまりに当然だと思っていたことを否定されたのが、意外だったのである。
「よく考えてみるんだ。」
権田原先生はそう言って、顎鬚をむしるのをやめ、少し体を乗り出すようにして次郎を見つめた。次郎には、しかし、何を考えていいのかさっぱりわからなかった。彼は、少し腹が立つような気もし、また、何か知ら、うっかり出来ないような気もして、ただおし默っていた。すると、権田原先生がまた言った。
「考えてもわからんかね。じゃあ、先生が言ってやろう。お前はこのごろ何かむしゃくしゃしている。それで、つい、あばれてみたくなっただけなんだよ。ね、そうだろう。」
そう言った権田原先生の眼は笑っていた。次郎は、しかし、笑えなかった。彼は権田原先生の眼を気味わるくさえ感じたのである。
「ねえ本田、――」
と、権田原先生は次郎の肩に手をかけて、
「先生には、君があばれてみたくなる気持も少しはわかっている。だから、ゆうべのことで君を叱ろうとは思わん。だが、もし君がそれで正しいことをしたつもりでいたら、それは大間違いだ。正しいことというものはね、まだ、自分のことしか考えられない人間に出来ることではないんだ。」
次郎には、先生の言っていることが、はっきりのみこめなかった。しかし、「自分のことしか考えられない人間」と言われたのが、妙に彼の心にこびりついた。
そのあと、権田原先生はまた顎鬚をむしりはじめた。そして天井ばかり見て、ほとんど口をきかなかった。
そのうちに鐘が鳴った。すると、先生はのそのそと立ち上りながら、
「あとのことは先生がいいようにしておくから心配するな。お前は、いま先生が言ったことをよく考えてみるだけでいいんだ。……とにかく、自分のやったことに得意になってはいかん。尤もらしい理窟をつけて安心しているのが一番いけないんだ。それでは、心から笑うことも出来なけりゃあ、怒ることも出来ん。……いいか、本田、お前はもっと無邪気になるんだぞ。」
権田原先生は、そう言って部屋を出ようとしたが、また立ちどまって、
「だが、無邪気になるといったって、いまさら赤ん坊になるわけにもいかん。そこがむずかしいんだ。赤ん坊は、自分のことだけ考えていれば、それが無邪気だし、お前くらいの年輩になると……」
先生は、そう言いかけて思案した。それから部屋のなかを何度も行ったり来たりしていたが、
「いや、これは少しむずかしい。先生にも、どう言っていいかわからん。……とにかく君は考えんでもいいことを考え、考えなくちゃならんことを考えていないようだ。そこがはっきりすると君は無邪気になれるんだ。……が、今日はまあこれでいい。いずれまた二人で話そう。……今度の時間から教室に出るんだぞ。」
権田原先生は、考え考え部屋を出た。次郎もそのあとについたが、彼は、なぜか、この時も運平老の蘭の絵を思い出していた。
喧嘩の一件は、次郎に関する限り、それで終りだった。学校でも、正木でも、そのことについて、次郎にその後訓戒したりすることなど、まるでなかった。そして、権田原先生が、「いずれまた二人で話そう」と言ったことも、それっきりになってしまった。
次郎は何だか拍子ぬけの気味だった。
しかし、権田原先生が宿直室で言った言葉――というよりは、その言葉ににじんでいた先生の気持――は、その後、徹太郎の松の木についての話と共に、何かにつけ彼の心に甦《よみがえ》って来た。そして、彼がいよいよ中学校にはいるまでの間、いくぶんかでも彼の心を正しい方向に鞭うっていたものがあったとすれば、それは、彼が、この二人の言葉と、運平老の蘭の絵とからうけた感銘であったにちがいない。
一三 がま口
ともかくも、こうして、一年近くの月日が流れた。
次郎にとって、それは、むろん、愉快な一年であったとはいえなかった。だが、いつも心を外に向け、喜びも、怒りも、悲しみも、すべて周囲の人々の愛情によって左右されて来た彼が、善かれ悪しかれ、自分というものに眼を向け出したことは、たしかに一つの進歩であったにちがいない。そして、もし「考える生活」というものが、人間を人間らしくする最も大事な条件の一つであるならば、彼は、一生のうち比較的早い時期に、しかも、なまなましい彼自身の生活に即してそれをはじめていたという点で、むしろ祝福さるべきであったかもしれない。
彼は、実際、この一年間で、自分の置かれている立場を、ほとんど第三者的な冷静さで観察する術を学んだ。また、多少の身びいきや偏見がまじっていたとしても、自分というもののほんとうの姿を、だいたいにおいて正しく見|究《きわ》めることが出来た。そして、それが、自己嫌悪に似た感情に彼を引きずりこんでいたこともたしかだったが、一方では、彼は彼自身と彼の周囲とに対していつの間にか、新しい闘いを闘いつつあったのである。その闘いは、もう以前のような気分本位の闘いではなく、その中には、幼稚ながらも、ある思想と、比較的永久性のある感情とが流れていた。それは、むろん、まだ「永遠」への思慕と呼ばるべきものではなかったのであろう。しかし、何かより高いものを求めないではいられない気持が、「運命」と「愛」との現実の中で、ほのぼのと息をつきはじめていたことだけは、たしかだった。
で、彼が第二回目に中学校の入学試験をうけた時には、彼はもう世間なみの受験生ではなかった。少くとも中学校の制服制帽にあこがれるといったような子供らしさは、すっかり超越《ちょうえつ》していた。そして入学後の生活というものに、ある真面目な期待をかけて、試験場にのぞんだのである。合宿――権田原先生の注意で、今度は彼も合宿に加わることになったが、――での彼の様子も、じっくりと落ちついており、いつも考え深そうな顔をしていた。試験場から帰って来て、権田原先生を中心に、みんなが、試験問題の解答について、興奮した調子で話しあっている時でも、彼は、一人で、何かべつの本を読んでいた。それは、彼が成績に十分な自信があったからばかりではなかったのである。
それでも、いよいよ成績の発表があり、中学校の生徒控所に張り出された合格者のなかに、自分の名を見出した時には、彼もさすがに落ちつけない気持だった。そして、家に帰ると、さっそく俊亮に教科書や学用品を買ってもらうようにねだった。俊亮も、次郎のそうした子供らしい様子を見るのはひさびさだったので、その日、忙しい仕事があったのをあとまわしにして、すぐ次郎をつれて書店に出かけた。
ひととおり必要な教科書や学用品を買ったあと、次郎は絵はがきがほしいと言い出した。すると俊亮は、いかにも無造作に、
「買いたいものがあったら、何でも今買っとくんだ。父さんは、めったにいっしょには来れんからな。」
次郎は、そう言われて、思わずじっと父の顔を見つめた。そして、
「ううん、絵はがきだけで、いいんです。」
と、十枚ほどの絵はがきを買うと、自分から先に立って書店を出た。何か、父の愛にあまえたくない気持だったのである。
書店を出て半丁ほど行ったころ、俊亮がふとたずねた。
「次郎は財布をもっているのか。」
「ううん。」
「じゃあ、一つ買ってあげよう。」
「僕、財布なんかいりません。」
「でも、もう中学生だから、買いたいものがすぐ自分で買えるように、いくらか小遣《こづかい》を持ってる方がいいんだ。」
次郎は答えないで、自分の足先ばかり見て歩いた。
小間物屋のまえに来ると、俊亮は默ってその中にはいった。次郎がその小さな飾窓《かざりまど》のまえに立って待っていると、俊亮は間もなく、小さな蟇口《がまぐち》を、ぱちんと音をさせながら出て来た。そして、それを次郎に渡しながら、
「一円ほど入れといたよ。なくなったら母さんにそう言えばいい。まあ、しかし、小遣は月二円ぐらいで我慢するんだな。」
二円という金は、次郎にとってはむろんすくない金ではなかった。それが、これから毎月自分で勝手につかえるんだと思うと、うれしいというよりは、何かそぐわない気持だった。だが、同時に彼の心にひっかかったのは、「なくなったら母さんにそう言えばいい」と言った父の言葉だった。父は何でもなくそう言ったらしく思えた。しかし、また、それを言うために、わざわざ蟇口を買ってくれたのではないか、とも疑えたのである。
家に帰ると、彼は一人で自分の机のまわりを整頓しはじめた。新しい教科書を本立にならべた気持は、決してわるいものではなかった。中には金文字のはいったものも二三冊あり、それがとりわけ彼の眼に新しく映った。恭一はもう今年は四年で、その本立には、分厚な字引類や参考書などが沢山ならんでいた。それに比べると自分の本立はいかにも物淋しかったが、それでも、新しい世界に足をふみ入れた、という気持を彼に起させるには十分だった。
彼は、いつの間にか蟇口のことを忘れていた。
ひととおり整頓を終ると、彼は、さっき買って来た絵はがきをとり出して、それに入学試験合格の通知を書きはじめた。先ず正木、大巻、権田原先生、竜一という順序に書いていった。源次も竜一も、幸いに、合格していたので、思うことが気楽に書けた。権田原先生は、わざわざ成績発表を見に来ていたので、あらためて通知を出さなくてもよかったはずだったが、何か書かないではいられない気持だったのである。
竜一宛のを書き終ったあと、彼はかなり永いこと頬杖をついて考えた。それから、ざら半紙を二枚、紙挟みからとり出して、それに鉛筆で、考え考え何か書いていった。書いていくうちにそれはだんだん長くなって、とうとう紙一ぱいになってしまった。彼は何度もそれを読みかえし、消したり、書き加えたりしたあと、今度は作文用紙に、ペンで念入りにそれを清書した。
それはお浜宛の手紙だった。文句にはこうあった。
「ばあや、おたっしゃですか。もう大かた一年も手紙を出さないで、ほんとうにすまなかったと思います。きっと心配していたでしょう。しかし、これにはわけがありました。僕は昨年、中学校の入学試験にしくじったので、どうしてもばあやに手紙を出す元気が出なかったのです。しかし、安心して下さい。今年はいよいよ僕も中学生になりました。今日それがわかったのです。だから、これからは、ばあやにも時々手紙を書くことにします。
中学校に一年おくれたのは残念でなりませんが、その代り、僕はこの一年のうちに、ほんとうに偉くなるにはどうすればよいか、といつもそれを考えました。これは僕には非常にためになったと思います。僕はこれまで、人に可愛がられたいとばかり思っていましたが、それはまちがいだったということがわかりました。それで、僕はもうどんなことがあっても、腹を立てたり悲しんだりはしないつもりです。
僕は、これから、ほんとうに正しい人間になりたいと思います。勇気のある人間になりたいと思います。そして、誰にも可愛がられなくても、独りで立っていける人間になりたいと思います。中学校にはいってからも、そのつもりで勉強していく決心です。
けれども、僕はばあやだけにはいつまでも可愛がってもらいたいと思います。ばあやはいつも僕のそばにはいないのだから、どんなにばあやに可愛がってもらっても、僕はちっとも弱くはならないと思うのです。
ではごきげんよう、さようなら。」
お浜宛の手紙を書き終ったあと、彼は春子にも、せめて絵はがきででも、中学校に入学したことを知らしてやりたいと思った。しかし、彼女の東京の住所を書いたのを、もうなくしてしまっていたので、今度竜一にあって、それをたしかめてから書く
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