た話し出した。
「君らはこれまで、運命と闘うように教えられて来たかも知れん。それも嘘じゃない。結局は運命に勝たなければならんからね。だが、闘うことばかり考えていると、つい、無茶をやるようになるんだ。無茶では運命に勝てん。勝とう勝とうとあせって、自分の力に及ばないことや、道理にはずれたことをすると、かえって負ける。芽を出したばかりの松は、どんなに力んでみてもすぐには岩は割れない。また大きくなった松でも、幹の堅さだけで岩を割るわけにはいかない。岩を割る力は幹の堅さでなくて、命の力なんだ。じりじりと自分を伸ばして行く命の力なんだ。だから、運命に勝ちたければ、じりじりと自分を伸ばす工夫をするに限る。勝つとか負けるとかいうことを忘れて、ただ自分を伸ばす工夫をしてさえ行けば、おのずとそれが勝つことになるんだ。」
徹太郎の調子は、ふだんとはまるでちがって来た。次郎は何か叱られているような気持だった。
「だが――」
と徹太郎は少し考えて、
「自分を伸ばすためには、先ず運命に身を任せることが大切だ。岩の割目で芽を出したら、その割目を自分の住家にして、そこで楽しんで生きる工夫をするんだね。岩を敵にまわして闘うのじゃない。むしろ有難い味方だと思って、それに親しんで行く。それでこそほんとうに自分を伸ばすことが出来るんだ。運命を喜ぶものだけが正しく伸びる。そして正しく伸びるものだけが運命に勝つ。そう信じていれば、まず間違いはないね。……どうだい、叔父さんの言うことは少しむずかしかったかね。恭一君にはわかったろう。」
「ええ。」
と恭一はうなずいて次郎を見た。
次郎は、その時、一心に松の木を見つめていたが、日がかげっていたせいか、その顔色は、何となく、くすんで見えた。
三人は、間もなく弁当がらの始末をして、そこを去った。そしてそれっきり松の木の話は誰の口にものぼらなかった。しかし、次郎が、徹太郎と恭一とを心配させたほど考えこんだのは、それからのことであった。次郎は、その日じゅう、自分からはほとんど口を利《き》かなかった。そして大きな木の根さえ見ると、立ちどまってじっとそれを見つめる、といったふうであった。
もっとも、このことが、その後次郎の気持にどれだけの影響を与えたかは、はっきりしなかった。彼は相変らす正木では「大人」であり、本田では反抗的であり、大巻では割合無邪気だった。ただいくらか変ったところがあったとすれば、それは徹太郎に対する彼の態度だった。徹太郎は、もう次郎にとって、ただの愉快な叔父さんではなくなっていた。その前で、べつに非常な窮屈《きゅうくつ》さを感ずるというふうでもなかったが、何か知ら、これまでのように彼を友達あつかいに出来ないものを感じるらしかった。そして、いつとはなしに、権田原先生に対すると同じような気持で、彼に対するようになって来たのだった。
「やっぱりお前は平凡な先生じゃ。」
「いや、今度は何と言われても、私の失敗でした。」
運平老と徹太郎とが、そう言って笑ったのは、それから間もなくのことだったのである。
学校での次郎の様子には、表面取り立てて言うほどの変化はなかった。どちらかというと、正木の家でと伺じように、いくぶん「大人になった」と先生たちの眼には映っていたらしい。中学校に失敗した連中のなかでも、彼の成績はずばぬけてよく、自然、級長もやらされていたが、彼はやるだけのことはきちんきちんとやってのけた。また、仲間に対する威力も相当で、彼が口をきくと、たいていのことは治まる、といったふうであった。こうしたことは、以前からもそうであったが、日がたつにつれて、それがいよいよがっちりとなって行くように、誰の眼にも見えたのである。
ただ、権田原先生だけは正木や本田といつも連絡《れんらく》があり、また徹太郎とも知合いで、いろんな機会に次郎の話をすることであったせいか、次郎の表面だけを見て、安心してはいなかった。そして、例の猪首を窮屈そうに詰襟のうえにそらし、我|関《かん》せず焉《えん》といったふうでいながら、教室では無論のこと、廊下を歩いている時でも、次郎には特別の注意を払っていたのである。
権田原先生が何よりも気がかりだったのは、次郎の顔から、大っぴらな笑いと怒りとが、次第にその影をひそめて行くことであった。笑うには笑っても、彼の笑いには時としてまるで声がなかった。以前のような、血の気にあふれた怒りなどは、ほとんど見られなくなっていた。そしてしばしば、可笑しくも何ともない、といった顔をしてみたり、腹を立てていながら、せせら笑いをしたりすることがあった。
「これはいかん。」
権田原先生は、おりおり一人でそうつぶやいた。そして、わざと教室でひょうきんなことを言ってみたり、校長に小言を食うほどの乱暴な競技を、組の生徒にやらしてみたりして、次郎の様子に注意していたこともあった。しかし次郎は、そんな時にも、いつも「大人」であり、めったに笑いも怒りもしなかった。
ところが、ある朝――それは夏休みが過ぎて間もないころのことだったが、――権田原先生が出勤すると、もう校長が教員室に待っていて、いかにも仰山らしく言った。
「君、ゆうべは大変なことがありましたね。何でも君の組の本田が主謀者《しゅぼうしゃ》らしいですよ。」
だんだん聞いてみると、次郎たちの仲間が十四五名で、隣村の青年たち四五名と、大川の土堤で乱闘をやり、相手にかなりひどい傷を負《お》わせたというのである。
「とにかく、さっそく本田を取調べてみて下さい。授業の方は、その間、私が代ってやっておきますから。」
校長にそう言われて、権田原先生は次郎をさがしに校庭に出てみた。しかし次郎の姿はどこにも見えなかった。時計を見ると、始業までには、あと三四分しかない。
先生は念のために校門を出てみた。すると、二丁ほど先の、小高い丘になった櫨林の中に、十四五名の児童がかたまって、何か話しあっているのが見えた。先生は、それを見ると、すぐ、大声をあげて、
「おおい。」と叫んだ。
児童たちは、一せいに先生の方を見た。それから、またお互いに顔を見合って、何か相談しているらしかったが、しばらくすると、その中の一人だけが、さっさと丘をおりて先生の方に近づいて来た。それは次郎だった。
ほかの児童たちは、いつまでも立ったまま次郎を見おくっていたが、先生がもう一度、「おおい」と叫ぶと、いかにも気が進まないかのように、しぶしぶと丘をおりはじめた。
権田原先生は、次郎が校門のところまで来ると、ほかの児童たちに頓着せず、彼一人だけをつれて、宿直室に入った。
やがて鐘が鳴り、授業がはじまって、校内は急にしずかになった。それまで、畳にあぐらをかき、顎鬚《あごひげ》をむしって天井ばかりを見ていた権田原先生は、思い出したようにたずねた。
「どうしたんだい、ゆうべは。」
「喧嘩しました。」
次郎は平然として答えた。
「正木のお祖父さんは、まだ何も知らないんだな。」
権田原先生の調子も平然たるものだった。
「はい。知りません。」
「そうか、じゃあ、先生に話してみい。いったい何で隣村の青年なんかと喧嘩をしたんだ。」
次郎の説明したところによると、こないだの夏祭りの晩に、素行のよくない隣村の青年たちが、五名ほど見物にやって来て、村のある女にけしからぬいたずらをした。次郎の友達でその女の弟になるのが、怒って彼らに石をぶっつけると、彼らは、あべこべにその子を捉えてさんざんぶんなぐった。次郎たちもそばに居合わせたが、その時は手が出せなくて残念だった。そのことを、あとで村の青年たちに話し、仇をとって貰おうと思ったが、あんなならず者を相手にしてもつまらん、と言って、誰も相手にしてくれなかった。そこで、次郎が中心になり、子供たちだけで仇討の計画を定め、相手をゆうべ大川の土堤に呼び出すことにした、というのである。
「呼び出すのには、どうしたんだ。」
「僕が呼びに行きました。」
「ほう、そして、何と言った。」
「今夜、土堤でこないだの仇討をするから、五人共出て来いって。」
「そしたら、すぐ承知したのか。」
「はい。」
「向こうでは、こちらも青年だと思ったんだろう。」
「ちがいます。僕、はっきり言ったんです。僕たち子供だけでやるんだって。」
「そしたら、相手はどう言った。」
「生意気だって笑いました。」
「ふむ。……それで、お前たちの方は人数は何人だった。」
「十五人です。だって、僕たちの方はみんな子供だから、そのぐらいはいてもいいと思ったんです。」
次郎はいそいで弁解した。
「うむ。そりゃあ、まあいいだろう。で、どんなふうにしてぶっつかったんだ。」
「僕たちの方は、五人が竹竿を持って行きました。」
「竹竿? ふむ。得物《えもの》はそれっきりか。」
「いいえ。そのうしろから、五人が棒をもって、ついて行きました。」
「ほう。棒をね。それから?」
「もう五人は、懐にいっぱい砂利を入れて、一番うしろにいました。これも、棒の短いのを腰にさしていたんです。」
「ふうむ。そしてその砂利をなげたのか。」
「はい、向こうが二十間ぐらいのところまで近よって来た時に投げました。」
「暗い所で、それが相手の青年だということがよくわかったね。まちがったら大変だったぜ。」
「月が出ていましたから、よくわかりました。」
「なるほど、ゆうべは月夜だったね。それで相手はどうした。」
「一人は石にあたったらしかったんです。あっと言ってすぐ土堤のかげにしゃがみました。すると、あとの四人が、どなりながら僕たちの方に走って来たんです。」
「みんな素手《すで》だったんか。」
「はい。」
「それを竹竿でなぐったんだね。」
「はい。だけど、竹竿はあまり役に立たんかったです。」
「どうして?」
「すぐ、たぐりよせられてしまいました。」
「そうか、そいつぁ困ったろう。」
「だけど、棒を持ったのがすぐ飛出して行って、なぐったんです。」
「なるほど。砂利の連中も棒をもっていたとすると、十人がかりになるわけだね。四人に十人だと、すいぶんなぐったんだろう。」
次郎はにやりと笑って、うつむいた。
「竹竿の連中は、その時どうしていた。」
「どうしていたか、その時はもう、僕にもわかんないです。」
「で、結局、勝負はどうなったんだ。」
「勝ちました。だって、それからすぐ向こうは逃げたんです。」
「君らの方にけがをした者はなかったんだね。」
「ありません。頬っぺたが少しはれてる者はあります。」
「青年たちには、ずいぶんけがをさしたらしいね。」
次郎は首をたれて默りこんだ。権田原先生も默ってしばらく顎鬚をむしっていたが、
「いったい、竹竿とか、棒切とか、砂利とかをつかって、そんな陣立《じんだて》をしたのは誰の考えなんだ。」
「僕です。」
と、次郎ははっきり答えた。
「面白い陣立だね。戦うからには、そのくらいの智慧は出す方がいい。それは卑怯だとは言えん。」
次郎は少し得意だった。
「だが、本田――」
と、権田原先生は相変らすず顎鬚をむしりながら、
「お前は喧嘩をするのが、やはり今でもそんなに面白いのか。」
「面白くなんかありません。」
次郎は少し憤慨したような調子だった。
「じゃあ、何でそんな真似をしたんだ。」
「僕、正しいと思ったからです。」
「正しい? なるほど相手が悪いことをしたんだから、これを懲《こ》らすのは正しいともいえる。だが、お前は誰に頼まれてそれをやったんだ。」
「誰にも頼まれてなんかいません。」
次郎は昂然《こうぜん》となった。
「ふむ。……じゃあ、誰に許されてやったんだ。」
次郎は解《げ》せないといった眼付をして、じっと権田原先生の顔を見つめた。権田原先生もしばらく次郎の顔を見ていたが、
「いや、それよりも、いったい誰のためにやったんだ。」
次郎はやはり返事をしない。
「まさか、相手の青年たちのためにやったとは言うまいね。そこまでは、お前も考えていまい。」
これは次郎にとっては、全く意外の言葉だった。「相手の青年たちのために」――そんなことは
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