の中には、「あの子も苦労をしたものだ」という燐憫《れんびん》の情や、「ともかくも変にそれなくてよかった」という安心の気持や、また時としては、「もっと子供らしいところがあってもいいのに」という遺憾《いかん》の意味やがこめられていたことは、たしかである。だが、それ以上の意味でその言葉をつかっていた者が、果してあっただろうか。
 十四歳の少年が、自分というものを一瞬も忘れることが出来ないでいる! 愛を求める自分の心に嫌悪を感じはじめている! 自己をいつわる自分の姿の醜《みにく》さにおびえて、手も足も出なくなっている! そんなことを誰がいったい想像することが出来たろう。
 自分を忘れかねている次郎の心を一層|窮屈《きゅうくつ》にしたのは、正木のお祖父さんが、おりおり考え深い眼をして、じっと彼を見つめることだった。次郎はその眼に出っくわすと、いよいよ手も足も出ない気持になったのである。次郎の記憶する限りでは、お祖父さんがそんな眼をして彼を見つめるのは何も今はじまったことではなく、彼が正木に預けられてこのかた、よくあることではあったが、このごろになって、彼はそれがとくべつ気になり出して来たのである。それがなぜだかは、彼自身にもわからなかった。彼はただ、自分が用心ぶかくなればなるはど、その眼に出っくわすことが多くなり、その眼に出っくわすことが多くなればなるほど、いよいよ用心ぶかくならないでは居れない気がするのだった。
「大人《おとな》になった」という言葉が、自然彼の耳にじかに聞えて来ることも、決してまれではなかった。そんな時には、彼は、自分が、いかにもしっかりした人間になった、と言われたような気がして、心の底でいくぶんの誇りを感じた。しかし、同時に、何か淋しい気もした。また、ほめられて喜ぶ自分の心をあざけるような気持にもなろた。彼はそうした複雑な気持をかくすために、人々のまえで、つとめて平気を装うのだった。
 こんなふうで、正木の家での彼は、表面取りたてて問題になるようなこともなかったが、それだけに、彼はいつも自己の天真をいつわり、彼自身をますます不愉快なものにしていたのである。尤も、彼がこうして自己嫌悪に似たものを感じていたとしても、それは、もともと彼の負けぎらいから来た人相手の感情でしかなく、その点では、彼はまだ何といっても子供であった。だから、正木の家で、「めっきり大人になった」ということは、必ずしも、彼が全く救いがたい人間になった、ということではなかったのである。
 本田の家での彼は、正木にいる時とはまるで様子がちがっていた。
 彼はやはり月に一度ぐらいは、正木の老夫婦にすすめられて、町に訪ねていったが、もう、お祖母さんに対しても、少しも負けてはいなかった。彼はずけずけと口答えもするし、食べたいもののありかがわかると、勝手に自分でそれを引き出して来て食べもした。そのために、お祖母さんは俊亮の前で、「末恐ろしい子」だとか、「孫にまでこんなに馬鹿にされては、生きている甲斐がない」とか、やたらに大げさな言葉をつかって、泣いたり、わめいたりするのだったが、次郎はそんな時には、わざとのように自分から二人のまえに坐って、父に叱られるのを待っているようなふうを見せた。そして、俊亮がお祖母さんの手前、何か小言めいたことを言い出すと、次郎はすぐ、
「僕、恭ちゃんや俊ちゃんの真似をしては悪いの?」
 と、いかにも皮肉な調子で問い返すのだった。
 俊亮は、むろん次郎のそうした態度を心から憂《うれ》えた。で、ある時、次郎だけをわざわざ散歩につれ出して、野道を歩きながら、しんみりと言いきかせたこともあった。しかし、次郎はその時も、変に真面目くさった顔をして答えた。
「でも、父さん、僕正直になる方がいいんでしょう。」
 これには俊亮もあっけにとられて、つい、突っ放すように言った。
「そんなふうでは、もう誰にも可愛がってもらえないよ。」
 すると次郎は、急に立ちどまって、じっと俊亮の顔を見つめていたが、
「僕、人に可愛がってもらうことなんか、きらいになっちゃったさ。」
 と吐き出すように言い、さっさと一人で先に帰ってしまったものである。
 お芳に対しては、彼は、まるで赤の他人に対するような冷淡さを示した。自分の方から言葉をかけることなどほとんどなく、お芳に何か言われても、極めてそっけない返事をするだけだった。そして俊三がお芳の近くにいるかぎり、彼はつとめてその場をさけようとするかのようであった。
 彼の相手はいつも恭一だけだった。恭一と二人きりだと、彼の様子はほとんど以前と変りがなかった。ただ、おりおり、祖母や母に対する自分の態度の変化を誇るような口ぶりを、それとなく洩《も》らすことがあった。そして恭一がそれについて少しでも彼に忠告めいたことを言い出すと、彼はすぐ、
「僕、正直になりたいんだよ」とか、
「人に可愛がってもらったって、つまんないさ」とか、妙に力んだ調子で言って、あとは変に默りこんでしまうのだった。
 彼が一番のんきな気持になれたのは、大巻を訪ねる時だった。そこでは、彼は、自分のこの頃の変な気持を示す余地をまるで与えられないかのようであった。というのは、運平老と徹太郎との、例の飄々乎《ひょうひょうこ》とした話っぷりや、高笑いが、彼の気持、というよりは、彼の存在そのものにまるで無頓着らしく思えたからである。それはちょうど、泣いている子供が、泣いていることを無視されることによって、泣きやむようなものであったのかも知れない。
 もっとも、運平老にしろ、徹太郎にしろ、次郎がこのごろどんなふうだかを、お芳の口から何も聞いていないわけではなかった。お芳は元来口下手だったし、自分から進んでくわしい話をしたがるようなふうもなかったが、やはり次郎のことを苦にはしていたらしく、本田のお祖母さんの手まえ、表面だけでも俊三によけい親しんでやらなければならないということ、親しんでやっているうちに、末っ子のせいか、自分ながら不思議なほど彼に愛情を感じ出したということ、また、次郎に対しても愛情を感じないわけではないが、ついそんな事情から、しだいに気持が離れて行くような結果になり、次郎本人に対しては無論のこと、俊亮に対しても心苦しく思っているということなどを、ぼつぼつもらしていたのである。
 で、大巻一家、ことに運平老と徹太郎の二人は、お芳以上にそのことを心配して、日曜ごとに次郎が訪ねて来るのを待ち、ついにその姿が見えないと、翌日は徹太郎がわざわざ本田の家に寄って、それとなく様子をさぐって来るといったふうであった。
 しかし、運平老は、次郎が訪ねて来さえすれば、もうそれだけで嬉しくなってしまったというふうに見え、眼をぱちくりさして、ひょうきんなことを言い出すし、徹太郎は徹太郎で、運平老の言葉尻をとらえたり、それに調子を合わせたりして、次郎をすぐ愉快な空気の中にまきこんでしまうのであった。そして、多少でも次郎が何かにこだわるようなふうが見えると、運平老はすぐ彼に竹刀を握らせるし、徹太郎だと、登山の話をしたり、彼を田圃《たんぼ》につれ出してひっぱりまわしたりするのだった。
 登山というと、徹太郎が、約束どおり、恭一と次郎とをつれて山に寝たことも何度かあった。そんな時には、次郎は徹太郎をまるで友達ででもあるかのように心得て、おしゃべりもし、いたずらもした。そして、天幕を張ったり、薪を集めたりする時には、恭一とはくらべものにならないほどのすばしこさで仂いた。
 恭一と次郎とでは、登山の楽しみ方がまるで違っているように思われた。恭一はいつも考えながら歩き、おりおり手帳を出しては何か書きつけるといったふうだった。次郎は、これに反していつも棒ぎれで岩や木を叩いたり、大声を出して山彦と問答をしながら歩いた。正木や本田の家での次郎を知っている者の眼には、山に登る時の次郎は、まるで別人だと思われたかもしれない。
 もっとも、ただ一度だけ、徹太郎と恭一とを非常に心配さしたほど次郎が考えこんでしまったことがあった。それは、ある山の中腹で、弁当を食べながら、近くの大きな岩の裂目に根を張っている松の木について、三人が語りあったあとのことだった。
「君たちには、あの岩が動いているのがわかるかい。」
 徹太郎が、松の木の根元の岩を指しながら、だしぬけにたずねた。恭一と次郎とは、けげんな顔をして、その岩を見たが、岩はしんとして日光の中にしずまりかえっているだけだった。
 徹太郎は笑いながら、
「眼で見たってわからんよ、心で見なくちゃあ。」
 すると恭一がすぐ、
「ああ、そうか。」
 と言って、次郎の顔を見た。次郎は、しかし、まだきょとんとしていた。
 それから、恭一と徹太郎との間に次の問答がはじまった。
「叔父さんは、子供の時分からあの松の木を見ていたんですか。」
「うむ、見ていたとも。」
「じゃあ、その時分から岩がどのくらい動いたか、わかってるんですね。」
「どのくらい? それはわからんよ。何しろ、見たところは、私の子供のころとちっとも変っていないからね。しかし、いくらか動いたことはたしかだろう。松の木が大きくなって行くんだからね。」
「昔は、あの岩は、一つにつながっていたんでしょうね。」
「むろん、そうだろう。松の木をぬきとって両方から押しよせてみたら、今でもぴったりくっつきそうじゃないか。」
「松の木って強いもんですね。」
「うむ強い。しかし強いのは松の木ばかりではないさ。命のあるものは、何だって強いんだ。草の根でも、それがはびこると石垣を崩すことがあるんだからね。」
「ほんとうだ。」
 と恭一はしばらく考えて、
「この松の木だって、もとは草みたいなものだったんですね。」
「そうだ。最初岩の割目に根をおろした時には、指先でもふみつぶせるほどの柔いものだったんだ。それがどうだ、このとおり固い岩を真二つに割って、それをじりじりと両方に押しのけている。眼には見えないが、今でも少しずつ、押しのけているにちがいないんだ。この松の木を見たら、命というものがどんなものだか、よくわかるだろう。」
 次郎の眼は光って来た。そして、徹太郎と松の木とを等分に見くらべながら、耳をすましてきいていた。
「だが――」
 と、徹太郎はちらと次郎を見て、
「命も命ぶりで、卑怯な命は役に立たん。卑怯な命というのは、自分の運命を喜ぶことの出来ない命なんだ。……わかるかね。自分の運命を喜ぶって。」
「ええ、わかります。」と恭一が答えた。
「次郎君はどうだい、むずかしいかな。」
 次郎はちょっとまごついたが、すぐ、
「運命って、わかんないな。」と素直に答えた。
「なるほど、運命がわからんか。じゃあ境遇と言ってもいい。たとえばあの松の木だ。何百年かの昔、一粒の種が風に吹かれてあの岩の小さな裂目《さけめ》に落ちこんだとする。それはその種にとって運命だったんだ。つまり、そういう境遇に巡り合わせたんだね。そんな運命に巡り合わせたのはその種のせいじゃない。種自身では、それをどうすることも出来なかったんだ。わかるだろう。」
「わかります。」
 と次郎はちょっと眼をふせた。
「そこで、運命を喜ぶということなんだが、どうすることも出来ないことを泣いたり怨《うら》んだりしたって、何の役にも立つものではない。それよりか、喜んでその運命の中に身を任せることだ。身を任せるというのは、どうなってもいいと言うんじゃない。その運命の中で、気持よく努力することなんだ。それがほんとうの命だ。あの松の木の種には、そういうほんとうの命があった。だから、しまいには運命の岩をぶち破り。それをつきぬけて根を地の底に張ることが出来たんだ。松の木は今でも岩にはさまれたままたが、もうそんなことは、松の木にとって何でもないことになってしまったんだ。」
 次郎はふと、運平老の蘭の絵のことを思い起した。そして、お祖父さんはあの時どんな話をしたんだろう、と考えてみたが、はっきり思い出せなかった。
 それから、三人とも默りこんで、めいめいに何か考えているふうだったが、しばらくして徹太郎がま
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