郎がたずねると、堀底の一人が大声で答えた。
「鮒は少のうござんしたよ。その代り今年は鰻が豊作でな。」
「少々でいいが、早速わけてもらえないかね。町から小さいお客を二人つれて来たんだが。」
「ようがすとも。」
気持よくそう答えて、その男は大堀の出口に築いてある堰《せき》をこえて向う倒に姿を消した。
徹太郎たちが、岸をおりてその方に行くと、受籠はもう引きあげられて、その中には鮒がはね、鰻がぬるぬると動いていた。
三人は、次郎のさげていた魚籠《びく》に、いくらかの鮒と鰻をわけてもらって、すぐ帰った。
帰ると、徹太郎は、鮒だけをお祖母さんに渡し、鰻は蒲焼にするために自分で割《さ》きはじめた。次郎は始終熱心にそれを見ており、自分でも何かと手伝ったりしたが、恭一は、鰻の頭に錐《きり》が突きさされるごとに眼をそらした。
午飯は一時近くになった。
大巻の家としては、近来にない賑やかな食卓だった。ご馳走は、鮒の味噌汁のほかは、すべて鉢盛りにしてあり、めいめい好きなものをとって食べるようになっていたが、これは恭一にも、次郎にも、いつもと勝手がちがっていた。しかし、二人は、何か自分たちの経験したことのない、なごやかな空気を、そんなことにも感じるらしかった。
次郎は盛んに鰻に箸をつけ、恭一は鰻よりも蒲鉾の方を多く食った。
食事がすんで小半|時《とき》もたつと、運平老は次郎に剣道の稽古をつけてやった。恭一にもすすめたが、彼はどうしても面をかぶろうとしなかったので、徹太郎は彼を二階の書斎につれて行って、勝手に本を見さした。
本棚には、少年読物から哲学書まで、かなり広い範囲《はんい》の本がならべてあった。絵の鑑賞《かんしょう》に関する本も二三冊あった。恭一は午前の話を思い出して、先ずそのなかの一冊を引き出してみた。
「恭一君は、やはり絵に趣味があるんだね。」
徹太郎にそう言われて、彼は頭をかいたが、それでも、挿画になっている名画の説明に、いつまでも眼をさらしていた。
次郎と運平老とが剣道をすまして帰って来ると、またみんなが茶の間に集まって、パイナップルの罐詰《かんづめ》[#ルビの「かんづめ」は底本では「かんずめ」]をあけた。運平老と徹太郎とは、何かにつけ恭一と次郎とをそっちのけにして、例の調子で論戦を始めるのだったが、話題はいつも世間ばなれのした、罪のないことばかりだった。そして、どちらに歩があっても、最後はきまって高笑いに終った。恭一と次郎とは、話がわかってもわからなくっても、何か自分たちの知らない新しい世界を見せられるような気持だった。
三時きっかりになると、徹太郎が、だしぬけに言った。
「さあ、もう帰る時間だ。これから叔父さんが迎えに行かなくても、ちょいちょいやってくるんだぜ。」
次郎は未練らしく恭一を見たが、恭一はすぐ帰る挨拶をした。するとお祖母さんが、心配そうに、徹太郎を見て、
「次郎ちゃんは正木に帰るんじゃないのかい。一人でいいのかね。」
「いつも一人ですよ。……ねえ次郎君。」
と、徹太郎は次郎の頭をくるくるなでた。次郎はうつむいていた。
「ほう、いつも一人か。」
と、運平老はまじまじと次郎の顔を見ていたが、
「これからは、町に行ったら、帰りにはきっとここにも寄ることにするんじゃぞ。恭一君もその時にはいっしょにやって来い。君にはこれから絵を教えてやる。」
それで徹太郎はまた笑いながら、
「そうれ始まった。恭一君、めったに陥落《かんらく》しちゃいかんぞ。」
大巻の家を出ると、次郎はなぜか急にしょんぼりとなった。県道に出るまでは、二人はいっしょの道だったが、しばらくはどちらからも口をきかなかった。
村はずれに来たころ、恭一が言った。
「大巻の家って、いい家だね。」
「うん。」
「あんな家だと、誰でも正直になれるね。」
次郎は、ちらりと恭一の顔を見ただけで、返事をしなかった。
「次郎ちゃんは、そんな気がしない?」
「するよ。」
「僕たち、今日来たの、よかったね。」
「うん。」
「僕、こないだお祖母さんと来たんだけど、その時はつまんなかったよ。」
「お祖母さんと? 一度っきりかい。」
「そうさ、一度っきりだよ。」
「母さんとは来なかったんかい。」
「ううん。お祖母さんと来たっきりさ。お祖母さんは、僕が母さんと大巻に行くの、嫌いなんだよ。」
「俊ちゃんは?」
「俊ちゃんはもう母さんと何べんも来たんだろう。」
次郎は默りこんだ。恭一はそれに気づくと、あわてたように話頭を転じた。
「大巻のお祖父さんの絵の話は面白かったね。」
「うん。」
「あんな話、非常に僕たちのためになると思うよ。」
「うん。」
次郎には、正直のところ、話の意味がはっきりとわかっていなかった。しかし、恭一にそう言われると、何か自分に忠告でもされているような気がするのだった。恭一は独りごとのように、
「僕、教えてもらえるんなら、ほんとうに稽古をしてみようかなあ。」
「絵をかい? 大巻のお祖父さんに。」
「うん。町からだと近いんだから、僕、いつでもこれるよ。」
次郎はまた默りこんだ。恭一は、しかし、今度は少しもそれを気にしなかった。そしてしきりに、大巻のお祖父さんにもっと近づいてみたいような話をした。
別れ道に来ると、恭一は立ちどまってたずねた。
「こんどは、いつ来る?」
「わかんないや。」
恭一には、それがいかにも投げやった調子にきこえた。
「町に来るの、いやなんかい。」
「…………」
次郎は眼を伏せた。
「ねえ、次郎ちゃん――」
と恭一は次郎の肩に両手をかけて、
「負けちゃあ、つまんないよ。僕たち、大巻のお祖父さんが描いた蘭になるんだ。誰にだって負けるもんか。正しい人を憎む人があったら、その人が悪いさ。僕、そんな人を軽蔑するよ。お祖母さんだって、母さんだって。」
次郎は涙ぐんでいたが、
「僕、憎まれたってもう何ともないよ。……僕、これから正直になるんだい。」
恭一は、次郎の言った言葉の前後の関係が、はっきりしなくて、ちょっと考えていた。
すると次郎は、
「さようなら。」
と、だしぬけに身を引いて、自分の行く方角にさっさと足を運び出した。
恭一は、次郎が小半町もはなれるまで、突っ立って彼を見おくっていたが、やっと気がついたように、
「さようなら!」
と叫んだ。次郎もふりかえって、もう一度、
「さようなら!」
と叫び、それから急に足を早めた。
ちらほら咲き出していた菜種の花が、うす日をうけて膚《はだ》寒い春風の中にそよいでいた。次郎にはいやにそれが淋しかった。二里あまりの道を、彼はうつむきがちに歩いた。そして考えるともなく昨日からのことを考えはじめた。
本田の家でのことを思うと、彼の気持はめちゃくちゃだった。夢中で牛鍋をつついた時の喜びでさえ、今はかえってにがい思い出でしかなかった。それにくらべて、大巻の家の空気は何という明るさだったろう。それは同じ人間の世界だとは思えないほどちがった世界で、誰も彼もが好意にあふれ、すべてが賑やかで、しかも力にあふれていた。次郎は、大巻の家のことを考えると、それがお芳とどういう関係の家であるかも忘れてしまうくらいであった。
ところで、大巻の家の楽しい思い出にまじって、彼の胸には、何か割りきれないものが残っていた。それは運平老に絵の話を聞かされたり、徹太郎に質問されて、あいまいな答えをしたりした時から、そろそろ芽を出していた感じだったが、一人になってその時のことを思うと、いよいよそれが重くるしく彼の胸をおさえつけるのだった。
これまで、彼が不快な思いをする時には、その原因はいつも周囲の人にあったが、この時だけはそうでなかった。彼は自分自身に、ある大きな物足りなさを感じはじめていたのである。
(自分は、自分を可愛がってくれる人が、なぜこんなに、ほしいのだろう。そして恭ちゃんや俊ちゃんが誰かに可愛がられているのを見ると、なぜいつもいやな気持になるんだろう。また自分は、人が正直でないと誰よりも腹が立つくせに、自分はなぜ嘘をついたり、ごまかしたりするんだろう。これが大巻のお祖父さんの言った「迷い」というのだろうか。)
(自分は卑怯なのだろうか。これまで、恭ちゃんなんかより自分の方がずっと強いと思っていたが、何だかあやしくなって来た。恭ちゃんはいつも真っ直な心で押しとおしているし、心にもないことを言ったりして、人に可愛がってもらおうとはしない。それに、このごろ恭ちゃんといっしょにいると、なぜかときどき恐いような気にさえなる。)
はっきりとではないが、彼の頭の中には、そんなような疑問が往復していた。幼年時代からの運命に培《つちか》われて来た彼の心理の複雑さが、こうして、そろそろと自覚的な仂きをみせるまでに、彼も今は成長していたのである。
饑《う》えた者が食物をつかもうとして、われを忘れて手をのばしている間は、まだ仕合わせである。だが、手をのばした自分の姿の弱さや醜さに嫌悪《けんお》を覚え、ひもじさをこらえて、じっと立ちすくんだ時のみじめさは、どうであろう。それを思うと、次郎はある意味では、これまでにない大きな不幸、しかも、周囲の人たちに同情してもらうにはあまりに底に沈みすぎた不幸に、自分自身を押しやっていたともいえるだろう。
夕雲に包まれた春の陽光は、一足ごとに鈍くなった。次郎の靴音も重かった。
ふだんなら、二里や三里は彼にとって何でもない道のりだったが、正木についた時の彼は、誰の眼にも、疲れきっているように見えた。そしてみんなが不思議がっていろいろたずねても、彼は、
「何でもないよ。」
と答えるきりで、ともすると、何かをじっと見つめがちになるのだった。
一二 考える彼
さて、読者の中には、次郎がいつまでも同じ年頃に停滞《ていたい》しているのを、いくぶんもどかしく思っている者があるであろう。考えてみると、次郎は、母に死に別れてから、まだやっと半年を少しこしたばかりである。話の進行は、実際、のろすぎたようだ。次郎に一日も早く恋をさせたり、広い世間を見させたりしたがっている読者のためには、私は私の物語をもっと急ぐべきであったかも知れない。
だが、誰もが知っているように、人間の「運命」の波というものは、恋をする時とか、広い世間と取っくみあう時とかばかりに、高まって来るものではない。次郎のように、まだ生まれたばかりの時に、一生のうちの頃も高い「運命」の波をくぐりぬけなければならない人も、ずいぶん多いのである。そして、私がこの物語を、単なる興味本位の小説に仕組もうとしているのでなく、次郎という一個の人間の生命を、「運命」と「愛」と「永遠」との交錯《こうさく》の中に描こうとしているかぎり、私は、この半年ばかりの彼の生活についても、そう無造作に筆を省《はぶ》くわけにはいかなかったのである。というのは、元来、継母を迎えるということは、人間の一生にとって、恋に落ちたり、広い世間の風にもまれたりすることよりも、小さな運命だとは決していえないし、ことに次郎の場合は、それがいろいろの事情とからみあって、ついに十四歳の少年としてはあまりにもむごたらしい、自己|嫌悪《けんお》にまで彼を駆《か》り立てようとしていたからである。
だが、私としても、そういつまでも十四歳の次郎ばかりにこびりついているつもりはない。もっと成長した彼について、これから語らねはならないことも非常に多いのである。ここいらで、次郎がいよいよ中学にはいってからの話に飛んで行きたいと思うが、しかし、自己嫌悪というような、人生の重大な危機におちいりかけた彼から、一年近くも全く眼をはなしてしまうのも心もとないし、それでは、やはり、彼の「運命」を忠実に語ることにもならないと思うので、ついでに、彼が中学にはいるまでのことを、ごくかいつまんで話しておくことにしよう。
「次郎もめっきり大人《おとな》になった。」
それがその後、正木一家の人たちが次郎について語る時の合言葉のようになっていた。むろんこの言葉の意味は単純ではなかった。そ
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