の山だけれど。」
「一人で? そうか。しかし登山はいいね。そのうち叔父さんが高い山につれていってあげようかな。」
「ええ。」
徹太郎と恭一とが、そんな話をしているのを聞きながら、次郎はいつも一間ほど先を歩いていた。
「次郎君は、どうだい、登山は?」
次郎はそう言われて、やっと二人と肩をならべながら、
「大好きです。」
「しかし、まだあまり登ったことはないんだろう。」
「学校の遠足で二三度登ったきりです。」
「じゃあ、もう少し暖くなったら、恭一君と三人で、天幕をかついで行って、山に寝てみようね。」
次郎は眼を輝かした。徹太郎は、それからしきりに登山や露営の面白さを説き立てて、二人を喜ばした。
大巻の家までは、せいぜい一里だった。で、十時近くには、三人はもう、そのふう変りな槇《まき》の立木の門をくぐっていた。
運平老は、座敷に画仙紙をひろげて、絵を描《か》いているところだったが、恭一と次郎とが挨拶に行くと、老眼鏡を隆《たか》い鼻先にずらして、じろりと二人の顔を見た。そして、
「ほう、来たな。よし、よし。」
と言ったきり、またすぐ絵筆を動かしはじめた。
二人はちょっと手持無沙汰だった。しかし、運平老が絵を描いているのを実際に見るのは、二人ともはじめてだったので、そのまま坐って、絵筆の運びに見入っていた。
画仙紙には、えたいの知れない線や点がべたべたとなすられていた。それが見ているうちに断崖のような形になった。そしてその中程から、長い髯《ひげ》みたようなものが、くねくねと幾筋も飛出して、それがたちまち蘭になった。
蘭を描き終ると、運平老は画筆をおろして、ちょっと腕組をした。それから、今度はべつの筆をとり上げて、絵の右上の余白に一行ほど漢字を書いた。それは恭一にも次郎にもまるで読めない字だった。最後に運平老は「鉄庵居士」と書いて筆を措《お》いたが、この四字だけは、恭一にも次郎にも見覚えがあり、それが運平老の雅号《がごう》だということも以前からわかっていた。
「どうじゃ、学校の図画とはだいぶ違うじゃろう。」
運平老は、やっと眼鏡をはずして、二人の方に向きなおった。
「学校の図画、あれは形だけのものじゃ。形だけでは、ほんとうの絵にはならん。ほんとうの絵は心で描くものじゃ。心の邪念《じゃねん》をはらって絵筆を握る。すると絵筆の先から自然に自分の気持が流れ出る。それがほんとうの絵じゃ。」
「邪念って、何です。」
と、恭一がだしぬけにたずねた。その調子はいかにも真面目だった。
「うむ……」
と、運平老は、ちょっと説明に窮《きゅう》したらしく、その大きな眼玉をぱちくりさしていたが、
「邪はよこしま、念はおもいじゃ。よこしまなおもいと書いて邪念と読む。つまり迷いじゃな。人間はとかく自分に都合のよいことばかり考えて、怒ったり、悲しんだり、喜んだりする。それが迷いじゃ。心に迷いがあるとそれが絵筆に伝わって、自然に絵も下品になるのじゃ。」
次郎には、運平老の絵が上品だか下品だか、さっぱりわからなかった。学校の図画の手本のような美しい絵が描けないくせに威張っているな、という気が彼にはしていた。しかし、運平老の言った言葉は、べつの意味で妙に次郎の心にひっかかった。彼はきのうからのことを考え、「迷い」という言葉が何か自分に関係のあることのような気がしたのである。
「お祖父さんは、きょうは蘭ばかり描くんですか。」
恭一は運平老が今朝から描いたらしい何枚もの蘭の絵が、壁にピンでとめてあるのを見まわしながら、たずねた。
「うむ、今日は蘭じゃ。気持のいい蘭が出来るまでは、何枚でも描くのじゃ。」
運平老はそう言って、いま描きあげたばかりの、まだ墨の乾《かわ》かない絵を、以前のと並べて壁にとめた。その前に坐って、しばらく一心に見つめていたが、
「うむ、うむ。」
と、一人で何度もうなずき、それから、また二人の方に向き直って、
「どうじゃ、これなら文句なかろう。」
文句があるも、ないも、二人はどの絵を見ても同じ感じがするだけであった。で、返事をしないで、くすぐったそうに眼を見あわせた。すると、運平老は言った。
「蘭が一株、千仭《せんじん》の断崖に根をおろして匂《にお》っているのじゃ。よいかな、たった一株じゃぞ。その一株の下は深い谷じゃ。断崖をつとうて、すっと見おろすと、白い泡《あわ》をふいて水が流れている。流れにそうて森もあれば、畑もある。どこかに小さな人影も見えていよう。その上を鳶が輪に舞っているかも知れん。いい景色じゃ……。」
運平老は、そこでちょっと言葉を切った。そしてまた何度もうなずいてから、
「今度は上を見るんじゃ。断崖は何十丈と上の方にものびている。じゃが、もうそこには一本の木も草もない。丸裸《まるはだか》の岩がただ真青な天に食い入っているだけじゃ。白い雲が一ひらぐらいは浮いているかも知れんがの。どうじゃ、これもいい景色じゃろう。」
次郎には何のことやらさっぱりわからなかった。しかし、恭一が案外真剣な眼付をして絵に見入っているので、自分も仕方なしに、画面の天地の何も描いてない部分を、きょろきょろと見上げ見おろしていた。
運平老は今度は絵と子供たちとを等分に見比べながら、
「天地をつなぐ断崖に根をおろして、天地を支配している蘭の心には何の迷いもないのじゃ。たった一株で淋しいとも思わんし、雨風にたたかれても苦にならん。花が咲く時には花を咲かせ、枯れる時が来たら括れるまでじゃ。わしも今日はひさびさで気持のよい絵を描いた。もうこれでおしまいじゃ。」
そしていかにも愉快そうに、ひとりでうなずきながら、絵筆を筆洗にひたしていたが、
「二人とも、ようおとなしく坐っていたのう。いったい、いつ来たんじゃ。」
二人は思わず顔見合わせて笑い出した。恭一は、しかし、すぐ真顔になって、
「お祖父さんが今の絵を描きかけた時です。」
「ああ、そうだったか。で、二人で来たかの。」
「叔父さんといっしょです。」
「おう、そうそう。徹太郎はゆうべは宿直じゃったな。なるほど、きょうお前たちをつれて来る約束じゃったわい。はっはっはっ。」
運平老は、絵の世界から、やっとほんとうに自分にかえったらしかった。
そこへ、大巻のお祖母さんが二人を呼びに来たので、運平老もいっしょに茶の間に出て行き、みんなで餅菓子を頬張った。
餅菓子を頬張りながら、徹太郎はまた登山の話をはじめた。そして崖に生えている植物の採集の話をし出すと、運平老は得たりとその話をさっきの蘭の絵にもって行き、徹太郎にさっそくそれを見て来るように言った。徹太郎は、
「またお父さんの独りよがりではありませんかね。」
と、笑いながら座敷の方に立って行ったが、間もなく帰って来て、
「やっぱりあれはただの蘭ですよ。高さの感じがちっとも出ていません。あれじゃあ、庭石の横っ腹に生えた蘭だと見られても、仕方がありませんね。」
運平老は眼をくるくるさして、
「なに、庭石の横っ腹じゃと。お前のような平凡な学校の先生には、墨絵の心は到底わからん。お前よりは恭一君の方がよっぽどわかりがよさそうじゃ。」
恭一の顔がかすかに赧らんだ。
「ふ、ふ、ふ。」
と、徹太郎は悠然とあぐらをかいて、餅菓子に手をのばしながら、
「恭一君、お祖父さんの説明にだまされちゃいかんぞ。説明つきの絵なんて、元来印刷物より外にはないはずだからな。」
「けしからんことを言う。水彩画や油画こそ、絵全体が説明ではないか。わしの描く墨絵には、一点の説明もありゃせん。」
「そのかわり、口で説明するんでしょう。」
「そりゃあ、素人には一応の説明をしてやらんと、絵の深さというものがわからん。説明してやっても、お前のような低能には、結局わからんがな。」
「また低能か。まあそこいらで負けときましょう。……ところで、どうだい、恭一君、君にはほんとうのところ、あの絵が高い崖に生えている蘭のように思えたのかい。」
「はじめはそんな気がしなかったんです。だけどお祖父さんの話を聞いているうちに、何だか高い崖のように思えて来ました。」
恭一はすこぶる真面目だった。
「そうれ、どうじゃ。」
と、運平老は得意そうに、
「恭一君は素直じゃから、話せばわかるんじゃ。」
「話せばわかるんで、話さなかったらわかりますまい。」
「いいや、素直な心があればわかるんじゃ。恭一君のような素直な心で、少し絵になれてさえ来ると、わしの話など聞かなくても、おのずとわかるようになるものじゃ。そこはお前のようなあまのじゃく[#「あまのじゃく」に傍点]とはわけがちがう。」
「今度は、あまのじゃく[#「あまのじゃく」に傍点]か。いよいよ僕の敗北らしいな。」
徹太郎はにやにや笑いながら、次郎を見て、
「どうだい、次郎君は。君もお祖父さんの話でわかった方なのかい。」
次郎には返事が出来なかった。彼は最初のうちは、徹太郎が運平老を冷やかしているのがばかに面白かった。むろん、彼自身も、蘭が断崖の高いところに生えているというふうには、少しも感じていなかったのである。しかし、運平老が恭一をほめ出してから、彼の気持は急に変った。そして自分の感じを率直に言うことが、何か自分のねうちを落し、運平老から離れて行く結果になりそうな気がしてならないのだった。
「いやに考えてるね。考えることなんかないだろう。お祖父さんの絵が駄目なら駄目と、思ったとおりに言うだけなんだから。」
徹太郎にそう言われると、次郎はいよいよまごついた。そして徹太郎と運平老との顔を何度も見くらべてから、やっと答えた。
「僕、わかんないなあ。」
答えてしまって彼はすぐ後悔した。誰の様子にもべつに変ったところはなく、ただほんの二三秒間沈默がつづいただけだったが、その沈默の間、これまでとはちがった、固《かた》い空気が、急にその場を支配したように彼は感じたのである。
「わかんないか。そいつぁ、次郎君、少しどうかしているぞ。……しかし、まあいいや。きょうは恭一君がお祖父さんの味方らしいから、名画が一枚出来たことにしておこう。」
徹太郎はそう言って、大きく笑った。運平老も笑った。そして肩をつんといからしながら、
「誰が何と言おうと、あれだけはわしの近来の傑作じゃ。その証拠には、わしは二人がいつ座敷にはいって来たかも知らないで、無心に筆を運んでいたんじゃ。」
それはいかにも変な論理だった。しかし、もう徹太郎には、それを攻撃の材料にする気はなかった。そして絵の話はそれでけりがついた。お祖母さんは、さっきから気乗りのしない顔をしてふたりの話をきいていたが、茶棚の置時計に眼をやって、
「おやもう十一時だよ。ご馳走は何にしようかね。」
「さあ、なるだけうまいものがいいですね。蒲鉾《かまぼこ》なら、僕、町から買って来て、戸棚にしまっておいたんです。」
「今日は大堀が干《ほ》さるんで、午《ひる》からだと小鮒と鰻が手にはいるんだがね。」
「あっ、そうそう、今日でしたね、大堀の干さるのは。じゃあ、僕行ってみましょう。もういくらか受籠《うけかご》にはいってるかも知れません。」
徹太郎は、せき立てるように恭一と次郎とをうながして、いっしょに大堀に行った。
大堀というのは、村で一番大きな灌漑《かんがい》用の溜池だった。この辺では、春になると溜池の水を順ぐりに川に落し、底にたまった泥を汲みあげて畑の肥料にするのだったが、今日はその大堀を干す番になっていたのである。
三人が着いた時には、堀の上にしつらえられた二つの足場に、百姓たちが二人ずつ立って、八本の綱でつるしたいびつな桶を巧みにあやつりながら、もう泥を汲みあげているところだった。堀の底にも泥まみれになった人が五六人居り、小桶で泥水を足場の方にかきよせていたが、おりおり鰻や鯰を揃えては岸に抛《ほお》りあげていた。汲みあげられた畑の泥の中には、小鮒がぴちぴち動き、隅の方の泥のよどんだところには、もう田螺《たにし》がそろそろと這い出していた。
「受籠《うけかご》の方はどうだったい。ちっとは這入ったかね。」
徹太
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