默りこんでしまった。
二人はそれから、やたらに煎餅をかじりはじめた。もう日が暮れかかって、ただでさえうす暗い部屋が、一層暗かった。その中で、煎餅をかじる音だけが、異様に、二人の耳に響いた。
菓子鉢も間もなくからになり、部屋はしんとして寒かった。しかし、二人はいつまでも階下《した》におりようとはせず、机に頬杖をついたまま、からになった菓子鉢の底に、ぼんやりと眼をおとしていた。
そのうちに、梯子段をのぼる重い足音がして、俊亮がのっそりと部屋にはいって来た。次郎は、あわてたようにいずまいを正して、ぴょこんとお辞儀をした。
「来たのか。」
俊亮は、それだけ言って、つっ立ったまま、しばらく二人を見おろしていたが、
「二人とも階下におりたらどうだ。ここには火もないだろう。」
次郎は、すぐ立ちあがりそうにして、恭一を見た。恭一は、しかし、いやに鋭い陰気な視線を次郎にかえしただけで、相変らず頬杖をついたままだった。
「今日は次郎が来たから、母さんに御馳走してもらおうかな。次郎、何がいい?」
俊亮はそう言って微笑した。次郎は、また恭一の顔をのぞいた。恭一は、頬杖のまま顔をちょっと父の方に向けたが、すぐまた眼を伏せてしまった。
「牛肉の鋤焼《すきやき》かな。……そう、それがよかろう。みんなで、つっつけるからな。……恭一、お前、肉屋まで走って行って来ないか。」
俊亮は愉快そうにそう言って、財布から五円札を一枚とり出し、それを机の上にほうりなげた。
「どのぐらい買って来るんです?」
恭一は、急に元気らしく、五円札をつかんだ。
「食べたいだけ買って来るさ。……二斤もあればいいかな。」
恭一はすぐ部屋を出た。しかし、梯子段のところまで行くと、ふりかえって言った。
「次郎ちゃんも一緒に行かないか。」
その時、次郎は、俊亮に默って頭をなでてもらっているところだった。恭一にそう声をかけられると、彼はあわてたように、
「うん、行くよ。」
と、とん狂《きょう》に答えて、急いで俊亮のそばをすりぬけた。
俊亮は微笑した。次郎はあかい顔をして、恭一のあとを追った。
二人が牛肉を買って来ると、めったに台所のことに口を出したことのない俊亮が、めずらしく、あれこれと指図《さしず》してお芳に鋤焼の準備《じゅんび》をさしていた。俊三も、はしゃぎきって、お芳といっしょに、台所から茶の間に物を運んだりしていた。ただ、むっつりと火鉢のはたに坐りこんでいたのは、お祖母さんだけだった。
すっかり準備が出来たのは、六時をかなり過ぎたころだった。
明るい茶の間の電燈の下で、父と兄との間にはさまれて、鋤焼鍋を囲《かこ》んだ時の次郎の気持には、何とも言えない温かさがあった。鉢に盛られた肉や、葱《ねぎ》や、焼豆腐の色彩、景気のいい七輪の火熱、脂のはじける音、立ちのぼる湯気の感触とその匂い、――彼は、彼の味覚を満足させる前に、すでに彼の五官のすべてを鋤焼というものに集中さして、恍惚となっていた。
彼にとっては、こうした食事の経験は、本田の家ではむろんのこと、正木の家でも、これまでに全くなかったことなのである。
「次郎、もうここいらが煮えているよ。」
さっきから手酌で晩酌をはじめていた俊亮は、煮え立った鍋のなかに箸をつきこみながら、まや次郎をうながした。次郎は、しかし、まごまごして恭一の顔ばかり見た。そして、恭一が卵を割ると自分も割り、肉をはさむと、自分もはさんだ。
子供にとって、味覚の世界はしばしば他のすべての世界を忘れさせるものである。次郎は、それから夢中になって鍋のものを口に運んだ。俊亮と恭一とが、かわるがわる、「もうここいらが煮えているよ」と言って、肉や葱を彼の前に押しやってくれるので、彼はほとんど箸を休める必要がなかった。お祖母さんがどんな眼をして彼を見ていたかも、俊三が鍋のなかのものをとるのに、どんなふうにお芳に世話をやいてもらっていたかも、彼はまるで知らないでいるかのようであった。しかし、食慾が満たされるにつれ、そして、鋤焼というものの刺戟が、次第にその新鮮味を失ってくるにつれ、彼の注意も、そろそろと周囲の様子にひかれて行った。
「母さん、僕、豆腐はいやだい。」
「ああ、そう、じゃあそれ母さんの皿にうつしてちょうだい。もうじき肉が煮えるから、待っててね。」
俊三とお芳との言葉が、ます次郎の耳を刺戟した。しかし、なお一層彼の注意をひいたのは俊亮と俊三とのつぎの対話だった。
「俊三、お前母さんに甘ったれてばかりいるね。」
「甘ったれてなんかいないよ。」
「だってそう見えるぞ。」
「馬鹿にしてらあ。」
「じゃあ、今夜は次郎が母さんのそばに寝るんだが、いいかね。」
「そんなの、ないよ。」
「どうして?」
「だって、恭ちゃんはお祖母さん、次郎ちゃんは父さん、僕は母さんときまっているじゃないか。」
「誰がそんなこと決めたんだ。」
「お祖母さんが、いつもそう言ってらあ。」
この対話が、次郎だけでなく、みんなの心を刺戟したのはいうまでもなかった。一瞬、鍋の煮立つ音が、いやに誰の耳にもついた。
次郎は、しかし、同時に気持のうえで妙な矛盾《むじゅん》に陥っていた。というのは、もし、家族六人を二人ずつ組み合せるとすれば、俊三の言った組合わせこそ、次郎にとっては、最も好もしい組合わせだったからである。
(母さんなんか、どうでもいいや。)
彼は、そんなふうにも、ちょっと考えてみた。しかし、そう考えると、やはりまた気持が落ちつかなかった。
「父さん!」
と、その時、沈默を破って、だしぬけに恭一が言った。
「僕、そんなふうに二人ずつ組み合わせるのは、非常にいけないと思うんです、父さんは、それをいいと思うんですか。」
「そうさね。」
と俊亮は、わざとお祖母さんの方を見ないようにして、ちょっと考えていたが、
「まあ、しかし、そんなことはどうでもいいだろう。」
「どうでもよくないんです。」
恭一はがらりと箸を投げすてて、泣くような声で叫んだ。
「お祖母さんは僕だけのお祖母さんではないんです。次郎ちゃんにも、俊ちゃんにも、お祖母さんです。父さんだって、母さんだって、やっぱり三人の父さんと母さんでしょう。」
「そうさ。あたりまえじゃないか。」
「じゃあ、なぜ、次郎ちゃんが久しぶりで帰って来たのに、お祖母さんも……母さんも……」
恭一はそう言いかけて、両手で顔を蔽《おお》うた。そして、やにわに立ちあがって二階にかけ上ってしまった。
俊亮は大きなため息をついた。お祖母さんは不安な眼をして恭一のあとを見送ったが、すぐその眼を転じて鋭く次郎を見つめた。お芳はじっとうなだれていた。俊三は牛肉をかみやめて、お芳の顔をのぞきこんだ。そして次郎は箸を握ったまま、ぽたぽたと涙を膝にこぼしていた。
鍋の中のものは、かなり景気よく煮立っていたが、その音は何か遠くの物音を聞くようであった。
一一 蘭の画
変にもつれた気分が翌朝になっても解けなかった。
沈默がちな、まずい朝飯をすますと、俊亮は、茶の間の長火鉢のはたで、いつまでも一枚の新聞に目をさらしていた。恭一と次郎とは、何度もその前を行ったり来たりして、座敷の方に姿を消した。お祖母さんは仏間で何かかたことと音を立てていた。そしてお芳は、おくれて起きてきた俊三のために、台所でお給仕をしてやっていた。
そこへ、だしぬけに、家の中の空気にそぐわない、はればれとした声で、
「お早う!」
と挨拶をして、黒のつめ襟の服を着た人がはいって来た。大巻徹太郎だった。
「やあ、お早う。さあどうぞ。」
と、俊亮は坐ったままで彼に挨拶をかえし、長火鉢の向こうに敷いてあった座蒲団をうらがえしにした。徹太郎はその上に無遠慮《ぶえんりょ》にあぐらをかきながら、
「ゆうべは宿直で、今帰るところです。」
「そう。それはお疲れでしょう。……ご飯は。」
「学校ですまして来ました。……ところで次郎君は来ていませんかね。」
「来ていますよ。」
「じゃあ、今日は、今から私のうちにつれて行きたいと思いますが、どうでしょう。恭一君も俊三君もいっしょに。」
「それは、よろこぶでしょう。……おい、次郎……恭一。」
俊亮が呼ぶと、二人はすぐ座敷の方から出て来た。
「やあ、次郎君、やっぱり来ていたんだね。どうだい、きょうは三人そろって叔父さんについて来ないか。お祖父さんもお祖母さんも待ってるぜ。」
次郎は突っ立ったまま恭一の顔を見た。彼は徹太郎にこんなふうに親しく話しかけられるのが、きょうは何かそぐわない気持だったのである。
恭一も変に落ちつかない眼をしていた。
「まあ、徹太郎さん、しばらくでございます。よくおいで下さいました。」
と、その時、お祖母さんが仏間から出て来て徹太郎に挨拶をした。それから、突っ立っている二人を見て、
「お前たち、どうしたのだえ。お行儀がわるい。お辞儀を申しあげたのかえ。」
二人はあわてて畳に手をついた。
「やあ。」
と、徹太郎は二人に軽くお辞儀をかえし、
「どうだい、次郎君、正木には夕方までに帰ればいいんだろう。ついでに大巻にも寄って行くさ。少しまわり道になるが、今からすぐ出かけると、やいぶんゆっくり出来るぜ。」
「恭ちゃん、行こうや。」
次郎は、もう乗気だった。
「うむ――」
恭一は、まださっぱりしないふうだったが、強いて拒む理由も見つからないらしかった。
「俊三はどうだ。大巻のお祖父さんとこに行かないか。」
まだ台所でお芳に世話をやいてもらっていた俊三に向かって、俊亮が言った。
俊三は返事をしなかった。次郎がそっとその方をのぞいて見ると、彼はお芳の耳元に口をよせて何か囁いているところだった。次郎の眼は、われ知らず、それに吸いつけられた。
「どうだい、俊三。」
もう一度俊亮が促《うなが》した。俊三はやはり返事をしない。そして相変らずお芳に何か囁いている。
お芳は困ったような顔をして、何度も首を横にふっていた。
「俊ちゃん、早くしないと、恭ちゃんと二人で行っちまうよっ。」
次郎がだしぬけに叫んだ。それはいかにも怒っているような声だった。
「いいんだようっ。母さんが行かないって言うから、僕も行かないようっ。」
俊三は、鬼ごっこでもするような、ふざけた調子で答えて、ふりむきもしなかった。
次郎はこみあげて来る無念さをごま化そうとして、変な作り笑いをしたが、さっきから自分を見つめていたらしい俊亮の眼にぶっつかると、急に立ちあがって二階にかけ上った。
二階からおりて来た彼は、もう帽子をかぶっており、手には恭一の帽子まで握っていた。
「叔父さん、行きましょう。」
彼は恭一の前に帽子をつき出しながら、徹太郎をせきたてた。
「まだお茶もあげないのに、何だね、次郎。」
お祖母さんがそう言って叱ったが、彼はもうそれには頓着せず、さっさと靴をはき出した。
「お茶はもう結構です。……じゃあ、俊三君はこのつぎにするかね。」
と、徹太郎は台所の方をのぞき、すぐ俊亮とお祖母さんとに挨拶して立ち上った。お祖母さんはいかにも不機嫌そうな顔をしていた。
三人が門口を出るときには、お芳も俊三も見送って出ていたが、次郎はつとめて二人の眼を避けているようなふうだった。
「じゃあ、お宅を三時頃にはおいとまさして下さい。日が暮れると、正木で心配しますから。」
俊亮のそんな心づかいをうしろに聞きながら、次郎は真っ先に立って歩いた。彼の足はやけに早かった。そして、町はずれを出てからも、誰とも口をきかなかった。
「中学校も三年になると、ちょっと学科がむずかしくなるねえ。」
「ええ。東洋史に覚えにくい名前が出て来て困るんです。」
「武道はどちらをやってるんだい。剣道?」
「いいえ柔道です。」
「君の体では、剣道の方がよくはないかな。」
「ええ、……でも、僕、面をかぶるのが嫌いなんです。臭くって。」
「だいぶ神経質だな。……べつに何か運動をやっているんかね。」
「やりません。」
「登山はどうだい。」
「好きです。僕、ときどき一人で登ります。この辺
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