が「自然」に打克《うちか》つように見えるのは、その「願望」が「自然」に即し「自然」の流れに棹《さお》ざしている時だけなのである。お芳から次郎を遠ざけ、その代りに、恭一と俊三をいつもお芳の身辺《しんぺん》に近づけておくことが、「次郎のため」の願望を自然の流れに棹ざさせる道であったとは、決していえなかったのであろう。
「自然」の最も深いところに根を張っているはずの肉親の愛ですら、何かの不自然を敢えてすることによって、或はゆらめき、或は枯れる。意義と理性とによって、その不自然を出来るだけ自然に近づけて行くことを知らない女性において、とりわけその危険が多いのだ。それは、お民と本田のお祖母さんとにおいて、すでに十分証明されたことではなかったか。まして、お芳は、もともと不自然な、しかも、ゆさぶってみるにはまだあまりに早すぎる接穂《つぎほ》でしかなかったのである。次郎に、かつての里子の経験が、再び新しい形ではじまろうとしていたとしても、それは「あるまじきことだ」とばかりは、必ずしも言えなかったのではあるまいか。
 事実を語ろう。
 次郎は、入学試験後、正木に来てから約一ヵ月ぶりで、土曜から日曜にかけて、はじめて本田の家に帰って行った。その日、彼は、お芳にもらった靴をわざわざ履《は》いて行くことにしたが、靴はまだ十分に新しかった。小学校では、ふだん靴を用いることになっていなかったので、彼はその日はじめてそれを履いたようなものだったのである。
 恭一や、俊三や、お祖母さんの顔にまじって彼を迎えたお芳の顔には、相変らず大きなえくぼがあった。べつだん、飛びつくように彼を迎えるふうはなかったが、正木にいっしょにいたころのお芳を知っていた次郎には、そのえくぼだけで十分だった。で、彼は、本田の家に帰って来てこれまでに感じたことのない、ある新しいあたたかさを感じながら、靴の紐をときはじめたのだった。
 するとお祖母さんが言った。
「おや、今日は靴を履いて来たのかい。母さんにこないだいただいたのを、もうおろしたんだね。田舎の小学校では靴はいるまいに。」
 次郎は、思わずお芳の顔を見た。お芳は、しかし、何の変った表情も見せてはいなかった。次郎は、安心したような、物足りないような変な気になりながら、上にあがった。
 それから、みんなは茶の間の長火鉢のまわりに坐ったが、偶然だったのか、そうなるのが自然だったのか、いつも俊亮の坐るところにお祖母さんが坐り、その左に恭一、お祖母さんと向きあってお芳、その右に俊三、そして次郎は、恭一と俊三との間に一人だけ横向に坐ることになった。そして坐ると同時に、四人はすぐ火鉢に手をかざしたが、次郎だけは、手を出さなかった。四月に入ったばかりで、陽気はまだ寒かったが、四里近くの道を歩いて来たばかりの次郎には、火の気の必要がほとんど感じられなかったのである。
 しかし、この瞬間、次郎は何ということなしに、変に冷たいものが、ふと自分の胸をとおりぬけるような気がした。それはあるかなきかの、ごく淡い感じではあった。しかし、次郎にとっては何よりもいやな種類の感じだったのである。
 彼は、強《し》いてその感じを払いのけようとつとめた。しかし、それは無駄だった。というのは、それから恭一と俊三とが、何か二こと三こと彼に話しかけたあと、話がいっこうにはすまず、妙に白けた空気が火鉢のまわりを支配してしまったからである。
 この時、もしお芳が、次郎に何か話しかけるか、或はちょっと気をきかして、すぐそばの茶棚から、次郎の眼にも見えていた菓子鉢でもおろして、みんなの前にさし出したとしたら、かりにそれがお祖母さんの機嫌を損じて、次郎にかえって不愉快な思いをさせる結果になったとしても、次郎は一ヵ月前の「母さん」をはっきり本田家に見出すことによって、十分そのうめ合わせをすることが出来たであろう。
 だが、お芳には、そんな気ぶりは少しも見えなかった。気がつかなかったのか、勇気がなかったのか、あるいはそれがあたりまえだと思っていたのか、彼女は、まるで気のぬけたおかめ[#「おかめ」に傍点]のような顔をして坐っているだけだった。
 それに、次郎の心を一層刺戟したのは、俊三がおりおりお芳にしなだれかかるようなふうをすることであった。彼は、俊三のそうした様子を見ているうちに、ふと、彼の六、七歳ごろの記憶をよび起した。それは、乳母のお浜と自分との間に恭一が割りこんで、お浜の愛を奪っていると想像した結果、恭一のカバンをそっと便所になげこんだおりのことであった。彼は、そのころ恭一に対して感じたものを、俊三に対して感じはじめたのである。
 それは、その時ほど狂暴《きょうぼう》なものではなかった。しかし、それだけに、胸のしんに何か食い入るような気持だった。彼はもうお芳と俊三とを見ている勇気がなくて、ひとりでに眼を恭一の方にそらした。
 恭一は、いやに注意深い眼をお芳に注いでいたが、次郎の視線《しせん》を自分の顔に感ずると、
「次郎ちゃん、二階に行こうや。」
 と、急に立ち上った。それからお芳のうしろにまわって、
「お祖母さん、これもらっていいでしょう。」
 と、茶棚の上の菓子鉢をとりあげた。お祖母さんは、ちょっといやな顔をして、
「二階に持って行くのかい。」
「ええ。いけないんですか。」
「食べたけりゃ、ここでいっしょに食べたらいいじゃないかね。」
「ここでは、おいしくないや。ねえ、次郎ちゃん。」
 恭一としては、いつもに似ない言い方だった。
 次郎はお祖母さんとお芳の顔を等分に見くらべていた。お芳は、しかし、相変らず無表情な顔をしていた。すると俊三が、
「僕、ここで食べる方がいいや。」
 と自分のからだでお芳のからだをゆさぶるようにして言った。
「俊ちゃんは、じゃあ、ここで食べろよ。」
 恭一は、そう言って、菓子鉢の中のものを、わしづかみにして、いくつか俊三にやった。それは亀の子煎餅だった。俊三は平気でそれを受取った。
「次郎ちゃん、行こう。」
 恭一は、そう言いすてて、さっさと階段を上って行った。
 次郎もすぐ立ちあがった。彼は立ちがけに、もう一度お芳の顔を見た。
 お芳はその時、少し眼を伏せていたが、めずらしく光を帯びた視線を次郎にかえした。それには、たしかにある表情があった。次郎には、しかし、それが何を意味するかは少しもわからなかった。
 彼は、同時に、お祖母さんの視線を強く自分の頬に感じたが、それには頓着《とんちゃく》しないで、すぐ恭一のあとを追った。
 二階に行くと、二人は菓子鉢を机の上においたまま、しばらくじっと顔を見あっていた。
「次郎ちゃん、がっかりしなかった?」
 恭一がやっとたずねた。
「どうして?」
 と、次郎はわざととぼけたような顔をして見せたが、その頬の肉は変に硬《こわ》ばっていた。
「だって――」
 と、恭一は言いよどんで、菓子鉢を見つめていたが、
「これ食べようや。」
 と、急に亀の子煎餅をつまんだ。しかし、二人とも、それを口に運ぶというよりは、それに浮き出している模様をぼんやり眺めている、といったふうだった。
「母さん、変じゃあない?」
「どうして?」
「だって、次郎ちゃんが来ても、ちっとも嬉しそうな顔をしていないじゃないか。」
「そうかなあ。」
「次郎ちゃんは、そう思わなかった?」
「…………」
 次郎は眼を伏せた。そして、亀の子煎餅を指先で砕《くだ》いては、鉢におとした。涙がこみあげて来るような気持だったが、彼はやっとそれをこらえた。
「僕、あんな人、きらいさ。」
 恭一は吐《は》き出すように言って、急に煎餅をぼりぼり噛み出した。
 次郎は、しかし、すぐ恭一に合槌をうつ気にはなれなかった。彼には、何かしら未練があった。さっき立ちがけに見たお芳の眼の表情も思い出されていた。
「じゃあ、恭ちゃんも、可愛がって貰えないの?」
 次郎は妙に用心深い眼をしてたずねたが、それには、かなり複雑《ふくざつ》な気持がこめられていた。恭一が可愛がられていないことは、彼としては安心なことのようにも思えたし、また、それだけお芳の愛が俊三に集中されていることのようにも思えたのである。
「僕?」
 と恭一は、いかにも冷たい微笑を浮かべて、
「僕は誰よりも大事にしてもらうんだよ。僕、それがいやなんさ。」
 次郎には、その意味がわからなかった。しかし、恭一はすぐつづけて言った。
「母さんはね、次郎ちゃん、お祖母さんの言うとおりなんだよ。僕を大事にするんだって、俊ちゃんを可愛がるんだって、みんなお祖母さんがいろいろ言うからさ。」
 次郎は、そう聞くと、かえって救われたような気がした。そして、さっきのお芳の眼の表情を、もう一度思い浮かべた。
「じゃあ、母さんは、俊ちゃんをほんとうに可愛がっているんじゃないの。」
 彼は、彼がふれるのを最も恐れていた、しかし、ふれないではいられなかったものに、巧みにふれる機会をとらえた。
「そりゃあ、ほんとうに可愛がっているかも知れんさ。だけど俊ちゃんを可愛がるからって、次郎ちゃんが久しぶりで来たのに知らん顔しているなんて、ひどいと思うよ。次郎ちゃんが可愛いなら、お祖母さんの前だって何だって、あたりまえに可愛がりゃあいいじゃないか。僕、ごまかすのが大きらいさ。」
 次郎は恭一の言葉がうれしいというよりは、もどかしい気がした。彼は、お芳がほんとうに俊三を愛して自分を疎《うと》んじているのか、それとも、単にお祖母さんの手前そんなふうにみせかけているのか、それをはっきり言ってもらいたかったのである。
 彼は、自分の俊三に対する嫉妬《しっと》を恭一に覚《さと》られないで、それをどうたずねたらいいかに苦心した。
「俊ちゃんは、あれからすぐ母さんが好きになったんかい。」
「好きになったんかどうか知らないけど、すぐ、わがまま言い出したよ。おおかた、父さんが、わがまま言ってもいいって言ったからだろう?」
「わがまま言っても、母さん怒らない?」
「ちっとも怒らないよ。わがまま言うと、よけい可愛ゆくなるんだってさ。」
 次郎の眼は異様に光った。彼は、自分がお芳に対して出来るだけ従順《じゅうじゅん》であろうとつとめていた一ヵ月まえまでの生活を思い起して、何かくやしいような気がした。彼はさぐるような眼をして、
「じゃあ、恭ちゃんもわがまま言えばいいのに。」
「馬鹿言ってらあ。僕、そんなこと、大嫌いだい。」
 恭一は、いかにも不快そうに答えた。次郎には、それは意外だった。自分が愛せられることだけに夢中になっていた彼には、恭一の潔癖《けっぺき》な気分がよくのみこめなかったのである。
「ねえ、次郎ちゃん――」
 と、恭一はしばらくして、
「僕、やっぱり、母さんなんか来ない方がよかったと思うよ。」
「どうして?」
「みんなが正直でなくなるからさ。母さんが来てから、みんな自分で考えてないことを、言ったり、したりするようになったんだよ。」
「母さんは、そんなにいけない人かなあ。」
「母さんがいけないんじゃないかも知れんさ。だけど、母さんが来るまでは、みんなもっと正直だったんじゃないか。このごろ父さんだって、嘘をつくことが多いぜ。お祖母さんなんか、しょっちゅう嘘ばかりだよ。」
 恭一は食ってかかるような調子だった。
「恭ちゃんも嘘をつく?」
「僕は嘘なんかつくもんか。僕、何でも思ったとおりに言ってやるんだ。だから、みんな困るんさ。困ったって、平気だよ。」
 次郎には家の中の様子が何もかも想像がつくような気がした。しかし、今の場合、彼にとって大事なのは、そんなことよりも、俊三とお芳との間が実際はどうだかを、はっきり知ることであった。
「じゃあ、俊ちゃんは?」
「俊ちゃん?」
 と、恭一はちょっと考えてから、
「俊ちゃんは僕にはよくわかんないや。母さんにわがまま言うのは、わざとじゃないだろうと思うけれど。」
「じゃあ、母さんが俊ちゃんを可愛がるのも、嘘じゃないんだろう。」
 恭一はまた考えた。そして、
「それも、僕には、はっきりわかんないさ。」
 次郎は物足りなさそうな顔をして、
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