ば、何かきっと気まずいことがあるにちがいない、と、思ったのである。
彼は、いらいらしながら、とうとう夕飯時まで、ぽつねんと一人で二階に坐っていた。
「ご飯だようっ、次郎ちゃん。」
階段の下から俊三にそう呼ばれて行ってみると、みんなはもうちゃぶ台の前に坐っていた。見ると、恭一は泣いたような顔をしており、お祖母さんは怒ったような顔をしていた。父はまだ帰ってきていないらしく、そのお膳には覆《おお》いがしてあった。
みんなむっつりして箸をうごかした。恭一はやっと一杯だけかきこむと、すぐ箸を置いて、二階に行った。次郎も間もなくそのあとについた。二人は、しかし、どちらからも口を利こうとしなかった。
「どうしたんかい。」
次郎がやっと口を切った。
「ううん、何でもないよ。」
それっきり二人は電燈もつけないで、默り込んで坐っていた。
七時過ぎになって俊亮が帰って来たが、飯をすますと、すぐ兄弟三人を座敷に呼んで、ごくあっさりと母を迎える話をした。「亡くなった母さんの代りに、正木の家の人として来て貰う。」ということと「お祖母さんに何もかもお骨折いただくわけにはいかんから。」というのが、話の要点《ようてん》だった。そして、
「なあに、そう窮屈に考えんでもいい。親切な小母さんにでも来てもらったつもりでいればいいんだ。ただ、母さんと呼んであげることだけは、忘れんようにしてもらいたいね。」
と、ちらっと次郎の顔を見て微笑した。
お祖母さんもその席にいたが、俊亮がそう言うと、膝をにじり出すようにして、
「恭一や、お前が一番の兄さんだから、次郎や俊三のお手本になるように、今度のお母さんに孝行をするんだよ。このお祖母さんのことなんか、もう忘れてしまってもいいんだからね。」
恭一の眼が悲しそうに光った。俊亮は、一瞬、眼をつぶって眉根《まゆね》をよせたが、すぐわざとらしく笑い出して、
「孝行だなんて、そんな大袈裟《おおげさ》なことは、今度の母さんにはいらないんだ。孝行は、お祖母さんとお父さんだけにすればいい。母さんには、三人共うんとわがままを言うんだね。」
「わがまま言ってもいいの?」
と、俊三が真面目になってたずねた。
「いいとも。」
と俊亮は、笑いながら答えた。
お祖母さんは、はぐらかされたような恰好になったので、不機嫌らしかった。恭一は何かそぐわない気持だった。次郎は、しかし、数日来の憂鬱な気分が、それでいくらか拭《ぬぐ》われたような気がした。そして、母と入れちがいに正木に帰ってしまおうかと考えていたことも、いつの間にか忘れてしまっていた。
*
翌々晩の、俊亮とお芳との結婚式は、極めて簡素《かんそ》だった。お芳は式服も着ず、紋のついた羽織をひっかけて、正木夫婦と青木医師――竜一の父――とに伴われてやって来た。ほとんど同じ時刻に大巻夫婦も来た。それだけの顔がそろうと、みんなが狭い八畳の座敷に座蒲団を重ねあうようにして坐り、青木医師の肝煎《きもいり》で簡略《かんりゃく》に盃事《さかすきごと》をすました。
恭一たち三人にお芳の盃をまわしながら、青木医師は言った。
「これが今日の一番大事な盃です。」
恭一は、その盃をいやに固《かた》くなってうけた。次郎には、その様子がいかにも可笑《おか》しく感じられた。盃事が終ると、すぐ大人だけの酒宴になった。正木のお祖母さんに促されて、お芳はすぐお酌《しゃく》やお給仕《きゅうじ》をはじめ、茶の間や台所にも何度かやって来た。恭一たちはそのたびに彼女の顔に注意したが、彼女は大きな笑くぼを見せるだけで、一度も口をきかなかった。
座敷では、大巻運平老がひとりで座を賑わした。老はここでもまたお芳の漬物上手なことを話し出したが、そのあとで、
「じゃが、本人は少々塩気が足りませんのでな。これはお母さんにこれから程よくもんでいただかなければなりますまい。はっはっはっ。」
と、例の張りきった声で笑った。
運平老は、座敷を賑やかにするだけでなく、茶の間にいた恭一たちの気持まで浮き浮きさした。三人はあとでは襖のかげから中をのぞいていたが、
「ね。似てるだろう。天狗の面に。」
と次郎が言うと、
「うん、そっくりだい。」
と俊三が答え、恭一までが、
「あれでもう少し鼻が高いと、いよいよ本物だぜ。」
などと囁《ささや》いたりした。
十時頃になると、お芳だけを残し、みんな人力車をつらねて帰っていった。運平老は、わかれぎわに、子供たち三人の頭をかわるがわるなでながら、言った。
「この祖父さんが剣道を教えてやるから、三人そろって、母さんといっしょにやって来るんじゃぞ。」
みんなを見送ったあとで、お芳は、お祖母さんと子供たち三人に、それぞれ持参のお土産《みやげ》を差し出した。お祖母さんには、大島か何かの反物、恭一には小さな置時計、次郎には靴、俊三には、いつか正木の家で次郎がもらったのと同じような、文房具のつめ合わせだった。
お祖母さんはじめ、その晩はみんな上機嫌だった。ただ次郎だけは、靴を見た瞬間から、また妙に気が重くなり出した。それは、中学校に入ったら靴を買ってもらいたいというのが、お芳との前からの約束だったからである。
一〇 鋤焼
入学試験の失敗は、気づかわれたほどには、次郎の心を傷つけなかった。彼は正木に帰ってから、ひととおり周囲に顔をやぶってしまうと、案外元気に学校にも通い、遊びにも出た。それをいつまでも気にやんでいたのは、むしろ恭一の方だったらしく、自分の学年試験が目前にせまっていたにもかかわらず、しばしば次郎にあてて長い手紙を書いたりした。
源次も竜一も不合格組だった。竜一は、誰に向かっても、
「全甲の次郎ちゃんでさえうからなかったんだから、僕がうからないのはあたりまえだい。」と言った。
源次は、二度目なので、さすがに少々てれてはいたが、二三日すると、どこで覚えて来たのか、「大器晩成だよ」などと言って、けろりとしていた。
合格者は、尋六から四名、高一から二名で、十五名の受験者中、都合六名が合格したので、他校に比べて、結果は非常にいい方だった。もっとも、六名が三名になっても、決してはずれっこない、と思われていた次郎が失敗したのには、学校側としても非常に残念だったらしく、しばらくは、どの先生も次郎の顔さえ見ると、
「惜しかったなあ。」
と言った。
ただ、何とも言わなかったのは、権田原先生だけだった。先生は、次郎に対してだけでなく、どの児童に対しても、合宿を引きあげて以来、試験の成績のことなど忘れたような顔をしていた。次郎には妙にそれが嬉しかった。そして、何かといえば自分を引きあいに出して、入学試験の話をしだす先生たちや、児童たちがうるさくてならなかった。
入学試験の失敗にからんで、もっと大きな問題になったのは、次郎が四月から町の小学校に転ずるか、あるいは、もう一年正木の家に厄介《やっかい》になるか、ということであった。
これについては、俊亮と正木の老夫婦とが、いろいろ首をひねったあげく、一応、お芳の考えを訊いてみたら、ということになった。ところが、お芳にはまるで自分の考えというものがなかった。彼女は、ただ、「皆さんでおよろしいように」とか、「次郎ちゃんの好きなように」とか言うだけで、それが自分にどんなかかわりがあるかさえ考えていないかのようだった。で、結局、次郎本人の考えに任せるのが一番よかろう、ということに落ちついたが、さてそうなると、今度は次郎が非常に迷い出した。
俊亮と恭一とは、むろん、今では次郎にとって最大の魅力《みりょく》だった。お芳は、二人にくらべると、まだそれほどでもなかったが、しかし、彼女のうしろには大巻運平老がいて、不思議な力で彼の心を捉《とら》えていた。お芳にはなれていては、運平老の家を訪ねる機会もめったにない、と思うと、彼は何か淋しい気がした。しかし、そうした魅力の陰から、いつも本田のお祖母さんの冷たい眼が、彼をのぞいた。その眼を思い出すと、一も二もなく本田の家に飛び込んで行く気にもなれなかったのである。
一方、正木の家には、最近彼が恭一に対して感じはじめていたような、涙ぐましい感激の種はなかったとしても、その伸び伸びとした空気は、何といっても捨てがたいものだった。また、むろん、まるで知らない町の学校に転校なんかするよりは、これまで通いなれた学校で権田原先生の教えを受け、竜一たちを遊び仲間にしている方が、はるかにいいにきまっていた。それに、はっきり自分で意識していたわけではなかったが、故郷の自然というものが、隠微《いんび》の間に彼をひきつけていたこともたしかだった。
彼は二日も三日もそのことばかり考えつづけた。これまで、魅力のある二つの道を与えられて、自由にその一つを選んでもいいような境遇にいなかった彼だけに、そして、さほど決定を急ぐ必要もなく、少くとも一週間や十日は考えてから決めてもいいことだっただけに、彼はよけいに迷ったらしい。とうとう、彼は、自分では解決が出来なくて、卒業式の二三日前、わざわざ権田原先生の家をたずねてその意見を訊いてみた。
すると権田原先生は、如何にも無造作《むぞうさ》に答えた。
「もう一年こちらにいるさ。そして、来年は君も合宿に加わるんだね。……転校なんかすると入学試験の間際になって、また糞づまりになるかも知れんよ。はっはっはっ。」
次郎は、こうして、結局もう一年間、正木の家に厄介になることに落ちついた。むろん、それは、ついこのあいだまでは、次郎の周囲の誰の心にも予定されていなかったことなのである。だが、人生の進路における予定の役割というものは、所詮大したものではない。予定は砂丘のように変りやすいものだし、人間の一生は、非常にしばしば、予定外の生活によって、その方向を与えられるものなのである。
だいいち「次郎のために」ということで迎えられたお芳が、その母としての生活を、次郎とべつの屋根の下で始めなければならなくなったということは、次郎にとって、何という皮肉な運命だったろう。
それは、いうまでもなく、お芳自身にとっても、――もし彼女が、「次郎のために」ということを真面目に考えて嫁いで来たとすれば、――まことに変なめぐり合わせだと感じられたにちがいない。だが、次郎にとってそれが重大な運命であったほどに、彼女にとっても重大な運命であったかは疑問である。というのは、そのことによって、自然二人の愛情が、どちらからか薄らいでゆく場合があるとして、それが次郎の方からであった場合にお芳の受ける打撃は、その反対の場合に次郎のうける打撃にくらべて、はるかに軽くてすんだであろうからだ。彼女には、次郎のほかに恭一や俊三がいた。彼女が三人のうちで最初に親しんだのが次郎であったとしても、もともと「次郎のために」ということが、周囲の人々の作為的《さくいてき》な希望であって、彼女自身の自然な心の動きから出発したものでなかったとすれば、彼女が、次郎に対して感じた以上の親しみを、恭一か俊三に対して感じないとは限らなかったのである。しかも、彼女が、その気楽な性分から、周囲の人たちのそうした期待をそう重く見さえしなければ、彼女は、次郎の代りに恭一や俊三を愛することによって、姑との間の感情を滑らかにし、彼女自身の生活を一層気楽なものにさえすることが出来たのである。
だが、次郎にとって、事柄はそう簡単なものではなかった。お芳は、今となっては、彼にとってただ一人の「母さん」であり、彼のお芳に対する思慕は、まだ十分深まっていたとは言えなかったにせよ、彼女の愛を失うことは、彼の本田における唯一の新しい希望を失うことであった。しかも、一年後、いよいよ本田に帰った場合の彼の生活は、お芳の存在によって、かえってこれまで以上のみじめなものにさえなる恐れがあったのである。
あるまじきことだ、と考える人があるかも知れない。だが、「自然」はいつも人間の「願望」よりも強い。そして、人間が「あるまじきことだ」と思うことを、しばしばあらしめるものだ。「願望」
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