持でやるんだね。はっはっはっ。」
みんなは先生がほんの冗談にそんなことを言ってみたのだど思ったらしかった。しかし、先生の気持は、次郎と恭一とには、よくわかった。
やがて入場の鐘が鳴って、みんなはぞろぞろと校舎にはいった。二百人の募集に千人近くの応募者だったので、昇降口はかなり混雑していた。次郎は、きのうまでは何とも思わなかったその光景が、いやに気になり出した。
試験場にはいってからの次郎は、それでも案外落ちついていた。問題紙が配られると、彼はゆっくりそれに眼をとおした。すべてで十問だった。べつに手におえない問題もなさそうに思えたので、彼はいよいよ落ちついて鉛筆を動かしはじめた。
最初に手をつけた三問だけは、わけなく出来た。次に手をつけたのが、小数や分数がごっちゃになっている計算問題だった。ところが、これがやってみると見かけに似ずうるさかった。
やっと答を出すには出したが、何だか不安だったので、もう一度やり直してみると、まるでちがった答えが出た。で、少しあせり気味になりながら、更にやり直してみた。すると、またちがった答が出た。そのうちに頭がじんじんし出して来たので、一応その問題を思い切って他の問題にうつることにした。
しかし、それからは、気ばかりあせって、ちっとも頭がまとまらなかった。すぐうしろの席で、がしがしと鉛筆を削《けず》る音が、一層彼の神経をいら立たせた。彼の膝はひとりでに貧乏ゆるぎをはじめた。しかも、何という不幸なことか、その頃になって大便を催して来たのである。それは、さほど烈しい要求ではなかった。しかし、頭をまとめるのに、それが非常に邪魔になったことはいうまでもない。
それでも、自信のある解答が、それからどうなり二つだけは出来た。まえの三つと合わせて五つである。しかし、十問中七問以上が確実に出来なければ及第|圏《けん》にはいらない、というのが次郎たちの常識だった。あと二問! 彼は残った問題のうち、どれを選ぶべきかを決めるために、鉛筆を机の上におき、強いて自分を落ちつけた。しかし、腰部の生理的要求は、もうその時はかなりきびしくなっていた。それに、教壇の上から、監督の先生がだしぬけに叫んだ。
「あと三十分!」
次郎は、反射的に鉛筆をとりあげた。そして、まえにやりそこなった小数と分数との問題を、もう一度計算してみた。その結果、最初にやった時の答と同じだった。
(何だ馬鹿を見た。)
彼は心の中でそうつぶやいたが、それでも、それがひとつかたづいて、いくらか気が楽になった。そして、時間はたっぷり二十分はあまされていたのである。で、もし、腰部の要求さえ彼を邪魔しなかったら、彼はあと二間ぐらいは、確実に片づけることが出来たかも知れなかった。だが、すべては運命であった。自然の要求の切迫は、たといそれが爆発点《ばくはつてん》にまで達していなかったとしても、残された彼の時間をたえず動揺させ、彼の頭を混乱させていたのである!
鐘が鳴るまでに、彼は、残された四問のうち二問だけを、まるで芋虫が蟻に襲撃されてでもいるかのように、いらいらした気持で片づけた。それが自信のある解答でなかったことは無論である。答案を提出して試験場を出ると、彼はすぐその足で便所に走っていった。便所から出て来た時の彼は、ちょっと気ぬけがしたような気持だった。が、もうほとんど人影のない渡り廊下を、校庭の方に向かって歩いて行くうちに、何ともいいようのない無念さがこみあげて来て、ひとりでに涙がこぼれた。彼は廊下の柱に両腕をあて、顔をうずめて、しばらく動かなかった。すると、
「次郎ちゃん、こんなところにいたんか。……どうしたんだい。」
と、恭一の声がすぐうしろの方からきこえた。
「ぼ、……僕、駄目だい。」
次郎は柱によりかかったまま、息ずすりした。恭一は悲痛な顔をして、しばらくうしろから彼を見つめていたが、
「みっともないよ。それに権田原先生が待ってるじゃないか。」
次郎は、やっと涙をふいて、恭一といっしょに校庭の方にあるき出した。そして問われるままに、成績のだいたいを話した。恭一は、国語の方の成績次第では、望みがまるでないこともない、といって慰めたが、そういう恭一本人が、非常に暗い顔をしていた。
権田原先生は、校庭で児童たちに取り囲まれ、両腕を組んで二人の近づくのを無言で待っていた。
「便所に行ったんだそうです。」
と、恭一がいいわけらしく言うと、先生は、
「ふうむ……」
と、うなるように答えて次郎の顔を見、それっきり何も言わないで、つっ立っていた。それから、かなり間をおいて、
「ふむ、そうか、ふむ。……じゃあ、みんな帰ろう。」
と、さきに立って校門の方に歩き出した。
校門を出て、しばらく行くと、先生はうしろをふりかえって、
「あとは口頭試問と体格検査だけになったね。きょうは本田も合宿に遊びに来い。恭一君もどうだね、いっしょに? 午飯《ひるめし》二人分ぐらいどうにでもなるぜ。」
「でも、うちで心配しますから……」
と、恭一は次郎の顔をのぞきながら答えた。
「うむ、それもそうだね。……では、先生があとで君の家へ行くから、お父さんにそう言っといてくれ。」
恭一と次郎とは、酉福寺の門前でみんなにわかれ、家にかえって、まずそうに午飯をすますと、そのまま、人眼をさけるように二階にあがってしまった。そして、しばらくは、机に頬杖をついて、お互いに顔を見あっては、眼を伏せていたが、あとでは二人ともぽたぽたと涙をこぼしはじめた。
恭一は、そのうちに、ふいに立ちあがって、押入から二人分の夜具を引出し、それをいつものとおりひろげた。そして、
「次郎ちゃん、寝ようや。」
と、自分で先にその中にもぐりこんでしまった。
次郎は、やっと顔をあげ、恭一がのべてくれた自分の寝床をみつめていたが、急に飛びかかるように恭一の蒲団《ふとん》のうえに身を伏せた。
「僕、……来年はきっと及第するんだから、許してね。」
恭一は、返事をしないで、ふとんの中に身をちぢめた。が、しばらくたつと、顔をかくしたまま息づまるように言った。
「僕、悪かったんだよ。……ゆうべ、次郎ちゃんにいろんなことを訊《き》いたの……悪かったんだよ。」
二人は、それからかなり永いこと同じ姿勢《しせい》でいた。
しかし、そのうちに次郎もやっとあきらめたらしく、恭一の蒲団《ふとん》から身を起して、校服のまま自分の寝床にはいった。そして、二人共、さすがに疲れていたらしく、権田原先生がたずねて来て俊亮と階下で話していたのも知らないで、夕方まで眠った。
九 靴
次郎は、案外悪びれずに、翌日の口頭試験や体格検査をうけた。しかし、ほかの受験者たちが、ちょいちょい昨日の算術の試験について話しあっているのを、耳にはさんだりしているうちに、自分の駄目なことが、いよいよはっきりして来た。
彼は、くやしいというよりも、何か気ぬけがしたようなふうだった。
彼にとって何よりもつらかったのは、正木に帰って不成績を報告することだった。で、万一に望みをかけて、及第の発表をまって帰ろうかとも考えた。しかし、いよいよ受からなかった場合のことを考えると、本田に残っている気にはなおさらなれなかったので、合宿の連中といっしょに、ともかくも正木に帰る決心をし、源次と竜一とにもそのことを約束していたのだった。
ところが、試験場からの帰りに、権田原先生は、例の無表情なような、奥深いような眼をして言った。
「本田は、もう三四日こちらに残るんだそうだね。ひょっとすると、成績発表の日まで残ることになるかも知れんが、失敗していても、平気で学校に帰って来るんだぞ。落第の仲間は沢山いるんだ。」
次郎は、先生にはじめて成績のことを言われて、眼を伏せたが、それよりも、三四日こちらに残るといわれたのがいやに気になった。で、そのわけをたずねると、先生は微笑しながら、
「それは、帰ってお父さんに訊いてみると判《わか》るよ。」
と言ったきり、べつに委《くわ》しい説明をしなかった。
彼は、恭一と二人で、急いで家に帰ってみた。しかし、父は留守だった。お祖母さんに訊けばわかるだろうと思ったが、一昨夜のことが、まだ大きな壁になってのしかかっているようで、二人とも訊いてみる気がせず、そのまま二階にあがってしまった。
すると、俊三が、すぐあとからついて来て、声をしのばせながら、しかし、いかにも大仰《おおぎょう》らしく言った。
「僕たちに、母さんが来るんだってさ。」
「なあんだ、そうか。」
と次郎は、それで何もかもわかったという顔をした。恭一は、しかし、何かにうたれたように俊三の顔をみつめた。
「え? いつ? いつ来るんだい?」
「あさっての晩だって。」
「ほんと? 父さんがそう言ったんかい。」
「ううん、お祖母さんにきいたよ。」
恭一は次郎の顔を見た。次郎は、しかし、母が来るのはあたりまえだ、といったような顔をしていた。
「お祖母さんはね、――」
と、俊三はまた、声をひめて、
「そんな人、来なくてもいいんだけど、正木のお祖父さんがそう言うから仕方がないって、言ってたよ。」
今度は、次郎が眼を光らせて、恭一を見た。恭一は非常に複雑《ふくざつ》な表情をして、次郎と俊三とを見くらべた。三人は、それっきりおたがいに顔ばかり見合っていたが、恭一が、しばらくして、
「俊ちゃんは、どう? 母さんが来る方がいい? 来ない方がいい?」
「僕、どっちでもいいや。……恭ちゃんは?」
「う……うむ……」
と恭一は妙に口ごもって、
「僕だって、どっちでもいいさ。」
「次郎ちゃんは?」
と、俊三はずるそうに次郎を見た。
「僕も、どっちでもいいよ。」
次郎は、わざと平気らしく答えて、そっぽを向いた。
「だって、お祖母さんは、今度の母さん、次郎ちゃんを一等かわいがるんだって、言ってたよ。」
「…………」
次郎は、ちょっと顔を赧《あか》らめて、横目で恭一を見た。恭一も彼の方をちらと見たが、すぐ視線を俊三の方に向けて、
「そんなことないよ。……そんなこと言うの、悪いよ。」
「どうして?」
「どうしてって、はじめっから、そんなわけへだてなんかする人だって思うの、悪いよ。」
「だって、お祖母さんがそう言ったんだもの。」
「お祖母さんが言ったって、悪いさ。お祖母さんは次郎ちゃんが……」
と言いかけて、恭一は急に口をつぐみ、落ちつかない眼をして次郎を見ていたが、
「ねえ、俊ちゃん――」と調子をかえ、
「僕たちこれから、誰にでも同じように可愛がってもらうようにしようじゃないか。」
俊三はわかったような、わからないような眼をして、恭一を見た。恭一は今度は次郎に向かって、
「今度の母さん、そんなわけへだてなんかしないね、次郎ちゃん。」
「うん、……しないだろう、……きっと。」
次郎は、とぎれとぎれにそう言って、妙にくすぐったそうな顔をした。
三人は、それっきりまた默りこんで、めいめいに何か考えているらしかったが、俊三はそのうちに、つまらなそうな顔をして、ひとり階下《した》におりていってしまった。
すると、間もなく、階段の下から、
「恭一や、ちょっとおいで。」
とお祖母さんの声がきこえた。恭一は、しばらく次郎の顔色をうかがってから、しぶしぶ立って行った。
次郎は一人になったが、べつにそれが気にもならず、また、何でお祖母さんが恭一を階下に呼んだのか、そんなことは考えてみる気もしなかった。彼はいつの間にか、また入学試験のことを思い出していたのである。
(あさっての晩までは、成績の発表はない。だが、母さんが来たら、きっといろいろ訊くにきまっている。それにどう答えたものだろう。いっそ、母さんと入れちがいに、正木に帰ってしまおうか知らん。)
彼はそんなことを考えて、小半時間もひとりで机に頬杖をついていた。
しかし、恭一があまり永いこと帰って来ないので、そろそろそれが気になり出した。で、自分も階下におりてみようかと思ったが、思いきって立ち上る気にはなれなかった。階下に行け
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