いつも発揮して来たところで、いわば彼の本能であった。しかし、この場合、その中身は、以前のそれとはずいぶんちがっていた。この場合の彼には、すこしもずるさがなかった。自分を安全にするために策略を用いようとする気持などは、微塵も動いていなかった。彼はただ無意識のうちに真実を見、真実を聞き、真実を味わっていたのである。
なるほど、彼の心のどこかには、お祖母さんに対する皮肉と憐憫《れんびん》との妙に不調和な感情が動いていた。また、自分のこれまで持っていなかった、ある尊いものを、恭一の言葉や態度に見出して、単なる親愛以上の高貴な感情を、彼に対して抱きはじめていた。しかし、そうしたことのために、真実が、次郎のまえに、少しでもその姿をゆがめたり、曇らしたりはしていなかったのである。いな、かえって、真実をはっきり見、聞き、味わった結果として、そうした感情が彼の心に動きはじめていたといった方が本当であろう。
「運命」と「愛」と「永遠」とは、こうして、いろいろの機会をとらえては、次郎の心の中で、少しずつおたがいに手をさしのべているかのようだった。だが、次郎はまだ何といっても少年である。「永遠」は見失われやすいし、「愛」は傷つきやすい。ただ「運命」だけは、どんな場合にも彼をとらえてはなさないであろう。
お祖母さんは、それから、いつまでたっても恭一のそばをはなれなかった。二人とも、もう泣いているようでもなかったが、やはりつっ伏したままだった。口もききあわなかった。次郎は次第に凝視につかれて来た。少し寒くなって来た。枕時計を見ると、もうやがて十一時だ。あすの試験が気になって来る。彼は、お祖母さんが自分を叱るなら叱るで、さっさと叱ってくれるといい、と思ったが、恭一の背中に押しあてたその頭は、石のように頑固《がんこ》だった。彼はそろそろ腹が立って来た。
(お祖母さんは、あんなことをして、僕の試験の邪魔をしているんだ。)
彼はふとそう思った。亡くなった母に対して、自分でもしばしばそうした押しつよい態度に出た経験のある彼としては、そう思うのも自然であった。また、そのぐらいのことは、実際お祖母さんのやりかねないことでもあったのである。その点では、お祖母さんと次郎とは、さすがに争えない血のつながりであった。しかし、悪魔の心を最もよく見ぬく者は悪魔であり、そして、それゆえに悪魔と悪魔とは永遠に親しむことが出来ない、ということが、もし二人の場合にもあてはまるならば、二人は、何という呪《のろ》われた星の下に生まれあわせたものだったろう。
時計は容赦《ようしゃ》なく三分、五分と進んで、もう十一時を過ぎてしまった。お祖母さんはやはり動かない。次郎は何かをその頭になげつけてやりたいような衝動《しょうどう》を感じた。また、三四年まえに、お祖母さんが自分にかくしてしまいこんでいた羊羹の折箱を、そっと盗み出して、裏の畑で存分にふみつけてやったことを思い出し、何か武者振《むしゃぶるい》いのようなものを全身に感じた。彼は、しかし、さすがに、もうそうした乱暴なまねをするまでに、自分を忘れることが出来なかった。それに、彼のまえには、お祖母さんのほかに恭一がいた。そのつっ伏している姿は、お祖母さんのそれとはまるでべつな意味をもって、彼の眼にうつった。それは、彼の目には神聖なもののようにさえ思えて来たのである。
彼はいきなり立ちあがって便所に行った。そして帰って来ると、すぐふとんを頭からかぶって、ねた。電燈はつけたままだったし、お祖母さんの姿勢《しせい》は、便所に立つまえとはいくぶんちがっていたが、やはり二人ともつっ伏したままだった。
彼は、むろん眠れなかった。枕時計の音がいやに耳につく。何度も、もぞもぞとふとんのなかで動いては、大きなため息をつき、そのたびに、そっと二人の様子をのぞいたり、枕時計を見たりした。
十一時を三十分以上も過ぎたと思うころ、お祖母さんがやっと起きあがって、恭一にふとんを着せてやる気配がした。
「そんなにまるまっていないで、足をおのばしよ。」
お祖母さんの声は、もうふるえてはいない。やがて電燈のスイッチをひねる音がした。暗くなったのが、ふとんをかぶっていても、よくわかる。
が、またすぐぱっと明るくなった。そして枕元に足音が近づいたかと思うと、次郎のふとんの襟がすうっとあがった。お祖母さんが次郎の顔をのぞきこんだのである。
次郎は眼をはっきり開き、上眼づかいでお祖母さんを見た。
「そんな根性で、中学校にはいったって、何の役に立つんだね。」
お祖母さんは、毒々しく言って、ふとんの襟をばたりと次郎の顔に落した。次郎はしかし、身じろがなかった。
やがてまた電燈が消えて、お祖母さんの階下におりて行く足音がした。
「次郎ちゃん、すまなかったね。早く寝よう。」
恭一が涙声で言った。
「うん。」
次郎はふとんの奥からかすかに答えた。答えると同時に、彼の眼からは、とめどもなく涙がこぼれ出した。彼が、やっとほんとうに眠ったのは、恐らく二時にも近いころであったろう。
八 蟻にさされた芋虫
翌日、次郎は、枕時計がまだ鳴らないうちに眼をさましてしまった。
彼は、かなり眠ったような気もし、またまるで眠らなかったような気もした。頭のなかには、水気のない海綿《かいめん》がいっぱいにつまっているようだったが、それでいて、どこかに砂のようにざくざくするものが感じられた。
部屋はまだ暗かった。枕時計を手さぐりして、それを自分の方に引きよせていると、恭一が声をかけた。
「もう眼がさめちゃったの? 僕、七時過ぎてから起きても大丈夫だと思って、めざましのベル、とめといたんだがなあ。……今日は九時からだろう。」
「うん。もっと寝ててもいいね。」
次郎は、そう言いながら、枕時計の表字板に眼を据えたが、暗くてはっきりしなかった。
(恭ちゃんは、まるで眠らなかったんじゃないかなあ。)
彼は、蒲団の襟に顔をうずめて、そんなことを考えていたが、つい、またうとうととなった。が、ほとんど眠ったような気がしないうちに、
「次郎ちゃん、もう七時半だぜ。起きろよ。」
と言う恭一の声を、耳元できいた。
眼をあけると、もう洗面をすましたらしい恭一の顔が、すぐ自分の顔の上にあった。
彼は、はね起きた。敷蒲団の上で重心をとりそこねて、ちょっと、よろけかかったが、そのまま泳ぐように壁ぎわに行って、そこにかけてあった学校服を着た。
「すぐ顔を洗っておいでよ、床は僕があげとくから。」
次郎は、言われるままに急いで階下におりた。そして洗面をすまして、梯子段のところまで来ると、恭一がもう次郎の筆入と帽子とをもっておりて来ていた。筆入には、鉛筆、小刀、メートル尺、消しゴムなど、試験場に入用なものが全部入れてあったのである。
二人は、すぐ台所に行って、ちゃぶ台のまえに坐った。飯を食べながら、昨夜来はじめてしみじみとおたがいの顔を見あったが、どちらも相手の顔色がいつものようでないのに気づき、ともすると眼をそらしたがるのだった。
お祖母さんが仏間の方から出て来て、ちゃぶ台につきながら、じろりと次郎を見た。しかし何とも言わなかった。きのうの朝は、恭一が次郎のために生卵《なまたまご》をねだったりしたが、きょうは誰もそんなことを思い出すものさえなかった。
お祖母さんは、それからも、じっと坐って二人の顔を見くらべていたが、
「恭一、お前、顔色がよくないようだよ。今日は次郎について行くの、よしたらどうだえ。」
そして、わざとのように、恭一の額に手をあてて、
「少し、熱があるんじゃないのかい。」
恭一は、その神経質な眼をぴかりとお祖母さんの方に向けた。が、すぐうつむいて、
「ううん、どうもないんです。」
と、首を強く横にふった。お祖母さんもそれっきり默ってしまった。
茶の間で新聞を見ていた俊亮が、ちょっと台所の方をのぞいて、何か言いそうにしたが、思いかえしたように眼を天井にそらして、ふっと大きな吐息をした。
「次郎ちゃん、便所すました? まだ時間はゆっくりだぜ。」
恭一は、食事をすまして立って行こうとする次郎に言った。
「ううん、大丈夫。」
二人が家を出たのは、八時を十二三分ほど過ぎたころだった。中学校までは二十分とはかからなかったが、途中、西福寺によって、合宿の連中といっしょに行く約束になっていたのである。西福寺までは七八分だった。
「頭がいたいことない?」
恭一が家を出るとすぐたずねた。
「ううん、何ともないよ。」
次郎はわざと元気らしく答えたが、やはり耳鳴がして、頭のしんがいやに重かった。
西福寺の門をくぐると、もうみんなは本堂の前に出そろって、わいわいさわいでいた。権田原先生も、間もなく庫裡《くり》の方から出て来たが、次郎を見ると、
「どうしたい? 眼が少し赤いようじゃないか。」
それから、恭一を見、また次郎を見て、何度も二人を見くらべていたが、
「二人で夜ふかしをしたんだろう。駄目だなあ、そんなことをしちゃあ。」
二人は默って顔をふせた。
「ゆうべ、何時に寝たんだい。」
「九時少しまえです。」
次郎がすぐ顔をあげて答えた。
「九時まえ? そうか。じゃあ、みんなよりも早く寝たわけなんだね。……ふうむ。……」
先生はけげんそうな顔をして、またしばらく二人の顔を見くらべていたが、間もなく外套《がいとう》のかくしから、黒い紐のついた大きなニッケルの時計を出して、時刻を見た。そして、
「みんな便所はすましたかね、大便は?……じゃ行くぞ。」
みんなは元気よく門を出た。次郎もそのなかにまじったが、妙にしょんぼりしていた。恭一は、一番あとから、権田原先生とならんで歩いた。
「ほんとうに九時まえに寝たんかね。」
権田原先生がたずねた。
「ええ。寝るには寝たんです。」
「すると、寝てから何かあったんだね。」
「ええ、……二人で話しこんじゃったんです。」
「話しこんだ?……ふうむ、……そんなに晩くまで。」
「ええ、少し晩くなり過ぎたんです。」
「何をそんなに話したんだい。」
恭一は首をたれて、返事をしなかった。
権田原先生も、それ以上強いてたずねようとはしなかった。そして、中学校の門をくぐってからも、先生は、誰とも口をきかないで、校庭のポプラの幹《みき》に腕組《うでぐみ》をしてよりかかっていたが、合図の鐘が鳴る五六分前になると、急に何か思い出したように、みんなのかたまっているところに来て、いきなり次郎の頭をゆさぶりながら、言った。
「あせるな、いいか。今日は試験場で居ねむりをするつもりでやって来い。……先生の友達にね、よく試験の時に居ねむりをしていた人があるが、その人はいまは大学の先生になっている。」
みんなが笑った。次郎も淋しく笑って頭をかいた。すると、源次がはたから口を出した。
「その人、落第したことないんですか。」
「む、落第したこともあるが、大ていは及第した。」
みんながまた笑った。今度は竜一が、
「そんな人、先生、ほんとうにいるんですか。」
「ほんとうだとも、その人は非常な勉強家でね、よく本を読んで夜更かしをしていたんだ。しかし、それは試験のためではなかった。試験なんかどうでもいいっていう気でいたんだから、眠くなりゃあ、試験の最中でも眠ったのさ。」
「でも、その人、落第したのは、居ねむりをしたためじゃありません?」
他の一人の児童がたずねた。
「うむ、それはそうだ。その時はちょっと眠りすぎたんだね。まだ一問も書かないうちに眠ってしまって、鐘が鳴るまで眼がさめなかったんだ。しかし落第したのはその時いっぺんきりだぜ。」
「でも、試験に居ねむりするの、いいことなんですか、先生。」
更に他の児童がたずねた。
「大してよくもないだろう。だから、お前たちに真似《まね》をせいとは言っとらん。真似せいたって、どうせお前たちには真似も出来んだろうがね。しかし、本田はゆうべあまり寝ていないそうだから、ひょっとすると、真似が出来るかも知れん。……まあ、とにかく、そのぐらいの気
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