ど、とうとう言っちゃったよ。言ったっていいんだろう。」
「そりゃあいいさ。どうせ、言わなきゃあならないんだから。」
「恭ちゃんも、言うんかい。」
「ああ、言うとも。……だけど変だなあ。まるっきり知らない人に、母さんなんて。僕、ほんとうは、そんな人来ない方がいいと思うよ。」
「そうかなあ――」
次郎は何か考えるらしかったが、
「でも、大巻のお祖父さん、僕、大好きだよ。」
「大巻のお祖父さんって誰だい。」
「母さんになる人の父さんさ。剣道を教えてくれるよ、うちに行くと。」
「ふうむ。……次郎ちゃん行ったことあるんかい。」
「ああ、もう何度も行ったよ。いつも土曜から行って泊るんさ。」
「そんなにいいお祖父さんかい。どんな顔の人? 正木のお祖父さんみたい?」
「ううん、天狗の面そっくりだい。正木のお祖父さんも背が高いんだけど、もっと高いよ。いつも肩をいからしてらあ。」
「ふうむ。……それでやさしいんかい。」
「やさしいかどうか知らないけれど、面白いよ。僕、あのお祖父さんだと、どなられたって怖くなんかないや。」
「どなられたことある?」
「うん、あるよ。僕、あのうちの泉水の鯉をつりあげちゃったもんだから。」
「泉水の鯉って緋鯉かい。」
「ううん、本当の雨鯉さ。大っきいのがいるぜ。」
「ふうむ。そして、その人、何て言ってどなったんだい。」
「ただこら[#「こら」に傍点]あって言ったきりさ。僕、びっくりしてすぐ鯉を逃がしてやったら、惜しかったなあって、笑ってたよ。」
「次郎ちゃんがつるのをどっかから見てたんだね。」
「見てたんだよ。座敷から。でも、僕にはとてもつれないと思って、安心していたんだろう。」
「そりゃ面白かったなあ。次郎ちゃんより、そのお祖父さんの方がびっくりしたんだろう。」
二人は笑った。それから、恭一は、しばらく何か考えているらしかったが、
「お祖母さんもいるんかい。」
「いるよ。豚みたいに大っきいお祖母さんだけれど、やさしいよ。それから、附属の先生もいるんだ。僕、その人も好きさ。」
「附属の先生? ふうむ……それから?」
「三人きりさ。僕たちの母さんになる人まで合わせると四人だけど。」
「附属の先生って、いくつぐらいの人?」
「よくわかんないけど、三十ぐらいかなあ。……弟だろう、母さんになる人の。……徹太郎っていうんだってさ。」
「母さんになる人、何ていう名?」
「お芳。大巻お芳だよ。……でも、正木のうちの人になったっていうから、正木お芳かなあ。」
「今度は本田お芳になるんか。……次郎ちゃんは変な気がしない。」
「ふふふ。」
次郎は笑った。彼は、しかし、はじめてお芳にあった時のことを思い出して、恭一が今どんな気持でいるかがわかるような気がした。
恭一の眼はいやに冴《さ》えていた。彼は、襖の向こうの梯子段が、かすかにきしむように思ったので、ちょっと耳をすましたが、それっきり、またしいん[#「しいん」に傍点]となった。
「次郎ちゃんは、亡くなった母さんの名を知ってる?」
「知ってるとも、お民っていうんだろう。」
二人は真暗な中で、ぽつりとそう言って、また默りこんでしまった。
恭一は、梯子段がまたきしむように思った。彼は枕からちょっと頭をもたげて、その方に注意したが、べつに人の気配はしなかった。
「ねむたくないね。」
と、次郎が言った。
「うむ、まだ九時半ぐらいだろう。だけど、もうねむった方がいいよ。」
「僕、十時に眠ればいいや。もっと話そうよ。」
「うむ――」
と恭一は生返事《なまへんじ》をしたが、すぐ、
「その人、いつごろうちに来るんかね。」
「母さんになる人?……もうすぐだろう。僕の入学試験がすんだら、すぐって言ってたから。」
「でも、次郎ちゃんは、また正木に行くんだろう。」
「そうさ。まだ卒業証書をもらわないんだもの。」
「すると、べつべつになるんかい、その人と。」
「ちょっとだよ。卒業したら、僕、またすぐここに来るんだから。」
「僕、次郎ちゃんがいないと、いやだなあ。」
「どうして?」
「次郎ちゃんがいないで、その人と話すの、何だかきまりがわるいや。」
「平気だい、そんなこと。だって、ここのお祖母さんのような意地悪なんかじゃないよ。」
恭一は默りこんだ。
次郎は、恭一に默りこまれたので、自分が何を言ったかにはじめて気がついて、はっとした。恭一にお祖母さんの悪口を言うのはいけなかったんだ。そう思うと、自分の言った言葉が、いやに耳にこびりついてはなれない。
恭一は、しかし、まもなく言った。
「次郎ちゃんは、正木にいるのが一等好きなんだろう。」
次郎は返事をしない。恭一も、強いて返事をうながすのでもなく、しばらくじっとしていたが、
「今度の母さんのうち、――大巻だったんかね、――そのうちだって、次郎ちゃんには、ここよりはいいんだろう。」
次郎は、それにも返事をしなかった。
「ね、そうだろう。ちがう?」
次郎はやはり默りこくっている。
恭一は、ちょっと身を起こして次郎の方をのぞいたが、またすぐ枕に頭をつけ、今度は、寝たまま腕をのばして、次郎の夜具の中を手さぐりしはじめた。
次郎は胸に両手をあててねていた。彼は、恭一の手を自分の夜具の中に感じたが、身じろぎもしなかった。しかし、その手が自分の臂《ひじ》から腕、腕から手の甲へと伝わって、最後に指をぎゅっと握《にぎ》りしめた時に、彼は、自分のもう一方のあいている手で、しっかり恭一の手の甲をおさえた。
「次郎ちゃんの気持、僕にだってよくわかるよ。」
と恭一が顔を近づけて言った。
「僕――」
と、次郎はため息に似た声で、
「父さんや恭ちゃんは誰よりもすきなんだがなあ。」
「もしお祖母さんがいなかったら、ここのうちどう? ほかのうちより好き。」
「うん。――だけど、恭ちゃんはお祖母さんが好きなんだろう。」
「ううん、この頃はそうでもないや。」
「だって、お祖母さんは恭ちゃんを一等可愛がるんじゃないか。」
「僕だけ可愛がって、次郎ちゃんを可愛がらなきゃあ、何にもならんよ。お祖母さんのすること、僕、もうきらいになっちゃったさ。いやぁな気持がするんだもの。」
次郎には、恭一の気持がそのままぴったりとはのみこめなかった。彼はただ、それを自分への同情の言葉として聞いただけだった。――むろん、公平ということのいかに望ましいかは、彼が彼自身の過去から、みっちり学んで来たことだった。しかし、彼の乗せられている天秤《てんびん》の皿は、恭一のそれとは、いつも反対の側にについていたのである。餓《う》えた者の求める正義と、飽いた者の求める正義とは、同じ正義でも、気持の上で大きな開きがあることは、次郎と恭一との場合だけには限られないであろう。
「そうかなあ。」
と、次郎は解《げ》せないといった調子だった。
「そうだとも。だから、僕、これからなるたけお祖母さんのそばにいないようにするよ。そして何かお祖母さんがくれたら、半分はきっと次郎ちゃんにもわけてやるよ。」
「ほんとう?」
「ほんとうさ。」
「じゃぁ僕も、正木のお祖父さんや、大巻のお祖父さんにもらったもの、恭ちゃんにわけてやるよ。」
「ああ、俊ちゃんにもね。」
「そうだい。俊ちゃんにもわけてやるんだい。」
次郎は妙に力んで言った。
「三人で仲よくなりゃあ、次郎ちゃんも、ここのうち嫌いではないんだろう。」
「うん。――もうお祖母さんなんか、へっちゃらだい。一人ぽっちにしてやらあ。」
次郎はすっかり調子にのっていた。恭一には、しかし、次郎のそうした言葉が、あまり愉快でなかった。で、彼は、握っていた次郎の手をその胸の上で神経的にゆさぶりながら、言った。
「そんなこと言うの、よせよ。僕ら、ただ三人で仲よくすれはいいんだよ。」
次郎は真暗《まっくら》な中で思わず眉根《まゆね》をよせ、五体をちぢめた。温い夜具をとおして、何か冷やりとするものが、彼の心臓のあたりに落ちて来たような感じだったのである。
彼はしばらく自分の気持を始末しかねていた。むろん適当な言葉も見つからなかった。お座なりをいう気には一層なれなかった。
と、だしぬけに、そして、ちょうど銀幕に暗い夜の場面が映し出されたかのように、襖がすうっと開いて、梯子段の下からさしているほのかな光線の中に、人影が浮いた。
恭一も次郎も、一瞬《いっしゅん》息をつめて、その人影を凝視《ぎょうし》した。
人影はせかせかと、しかし、足もとに用心しながら部屋にはいって来た。そして、二人の机のそばまでやって来ると、しばらくぐずついていたが、やがて電燈がぱっとともった。二人とも、人影を見た瞬間、てっきりお祖母さんだと思ったが、果してそうだったのである。
次郎はすぐ夜具を頭からかぶった。恭一は神経的に眼をぱちぱちさせて、お祖母さんを見た。お祖母さんの頬から喉《のど》にかけての肉が、蛙が息をつく時のように動いている。
お祖母さんは、二人の様子をじっと見くらべてから、恭一の枕もとに坐った。そして、強いて自分を落ちつけているらしい声で、
「恭一や、だから、言わないこっちゃないだろう。お祖母さんは、お前たちの話をみんな聞いていたよ。次郎といっしょに寝たりすると、どうせろくなことは覚えないのだからね。」
恭一は何と思ったか、くるりと起きあがって、敷蒲団のうえに坐った。寝巻一枚のままだった。
「風邪をひくじゃないかね。どてらをおかけよ。それに、もうこんなところに寝るのは、よした方がいいんだから、階下《した》においで。蒲団はすぐ運ばせるから。」
恭一は、どてらを着たが、そのまま動かなかった。
「やはり、ここに寝たいのかい。」
恭一はうなずいた。
「ああ、あ。何というわからない子になったのだろうね。ふだんはあんなによくお祖母さんの言うことをきく子だのに、次郎といっしょになると、こうも変るものかね。」
恭一の青白い頬がぴくぴくとふるえた。何か言おうとするが、唇のところで声がとまるらしい。彼は、次第に首を深くたれた。お祖母さんは、それを自分の言ったことに対するいい反応だと思ったのか、手をのばして彼のどてらの襟を合わせてやりながら、
「さあ、早く階下《した》においで。わるいことは言わないから。いつまでもこうしていると、ほんとに風邪をひくよ。」
「僕、いやです!」
恭一は、帛《きぬ》をさくような声で、そう叫ぶと、敷蒲団の上につっぷして、はげしく息ずすりをした。
お祖母さんは、ぎくりとして、しばらくその様子に眼をすえていたが、急に自分も恭一の背中に顔を押しあてて、泣き出した。
「恭一や、お前がそれほど階下《した》におりるのが、いやなら、……もう、むりにおりておくれとは……言わないよ。……だけど、だけど、お前、さっき、なるだけお祖母さんのそばにいないようにするって、お言いだったね。……あれは、ほんとうかい。そんなにお前は、このお祖母さんが、きらいになったのかい。……ねえ、恭一や、このお祖母さんは、……何を楽しみに生きているとお思いだえ。……次郎が……次郎が……お前は、そんなにこのお祖母さんより……大切なのかい。」
「お祖母さん、……ぼ……僕、わるかったんです。あんなこといったの、わるかったんです。だけど、次郎ちゃんとも仲よく……したいんです。お祖母さんにも、次郎ちゃんを可愛がってもらいたいんです。」
恭一は、うつぶしたまま、どてらの中からむせぶように言った。
次郎は、いつのまにか敷蒲団のうえに起きあがって、二人の様子を眼を皿のようにして見つめていた。しかし、その時、彼の心を支配していたものは、怒りでも、悲しみでも、驚きでもなかった。彼は恐ろしく冷静だった。耳も眼も、これまでに経験したことのないほど、冴《さ》えきっていた。彼は、恐らく、お祖母さんが彼の方に鋒先を向けかえて、何を言い、何をしようと、そのどんな微細な点をでも、見のがしたり、聞きのがしたりはしなかったであろう。それほど彼は落ちついていたのである。
むろん、彼のこうした落ちつきは、彼が幼いころから、窮地《きゅうち》に立った場合
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