し、数日来の憂鬱な気分が、それでいくらか拭《ぬぐ》われたような気がした。そして、母と入れちがいに正木に帰ってしまおうかと考えていたことも、いつの間にか忘れてしまっていた。

     *

 翌々晩の、俊亮とお芳との結婚式は、極めて簡素《かんそ》だった。お芳は式服も着ず、紋のついた羽織をひっかけて、正木夫婦と青木医師――竜一の父――とに伴われてやって来た。ほとんど同じ時刻に大巻夫婦も来た。それだけの顔がそろうと、みんなが狭い八畳の座敷に座蒲団を重ねあうようにして坐り、青木医師の肝煎《きもいり》で簡略《かんりゃく》に盃事《さかすきごと》をすました。
 恭一たち三人にお芳の盃をまわしながら、青木医師は言った。
「これが今日の一番大事な盃です。」
 恭一は、その盃をいやに固《かた》くなってうけた。次郎には、その様子がいかにも可笑《おか》しく感じられた。盃事が終ると、すぐ大人だけの酒宴になった。正木のお祖母さんに促されて、お芳はすぐお酌《しゃく》やお給仕《きゅうじ》をはじめ、茶の間や台所にも何度かやって来た。恭一たちはそのたびに彼女の顔に注意したが、彼女は大きな笑くぼを見せるだけで、一度も口を
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