顔が母らしい顔だとはどうしても思えなかった。
「恥かしがったりして、はじめにぐずぐずすると、あとでよけい言いにくくなるのよ。きょうから思いきってお母さんって言ったら、どう?」
「だって――」
と、次郎は、火鉢にさしてあった焼鏝《やきごて》を灰の中でぐるぐるまわしながら、
「だって、母さんのようじゃ、ちっともないんだもの。」
「そりゃあ、はじめてお目にかかったばかりなんだから、そうだろうともさ。だけど、きっと次郎ちゃんを可愛がってくださるわ。次郎ちゃんのために来ていただいたんだもの。」
「僕、もう、お母さんなんか、なくてもいいんだがなあ。」
次郎は歎息するように言った。お延はしばらくじっと次郎の顔を見ていたが、
「でも、もう間もなくよ、次郎ちゃんが町に帰るのは。……町にかえったら、ひとりで淋しかあない?」
「町にはお父さんがいるからいいや、それに恭ちゃんや、俊ちゃんだって、このごろ仲よく遊んでくれるんだもの。」
彼は、その時、万年筆のことを思い出していたのである。
「だけど、女の人はお祖母さんだけなんでしょう。お祖母さんだけだと――」
お延は言いかけて、口をつぐんだ。そしてしばらく考えたあと、急にお針の道具を片方に押しやって、次郎の皹《ひび》だらけの手をにぎりながら、
「ねえ、次郎ちゃん、お父さんはね、次郎ちゃんが可愛いばっかりに、お母さんをお迎えになるのよ。だから、もし次郎ちゃんが、どうしてもお母さんがいらないってお言いなら、お父さんは無理をしてもお止しになると思うわ。だけど、どう? ほんとうにいらない? 町に帰っても大丈夫? 女の人、お祖母さんだけでもいいの?」
次郎はだまりこんだ。それは、しかし、町での生活が心配だからではなかった。正木の老夫婦と、父とが、自分のために考えてくれたことを、ぶちこわしてしまうのが、何となく大へんなことのように思えて来たからである。
「そりゃあ、次郎ちゃんがどんな気持だか、この叔母さんにもよくわかるわ――」
と、お延は、あたりを憚《はばか》るように声をおとして、
「誠吉のように、この家で生れてさえ、まだあんなだからね。何といったって他人だもの、そりゃあほんとうの親子のような気持にはなれないだろうともさ。だけど、あの方は、本田のお祖母さんよりか、きっと次郎ちゃんを可愛がって下さるわ。」
次郎は、お延がいくぶんかでも自分の気持に同情してくれているのが、妙に嬉しかった。
「それに――」
と、お延は、次郎の手をなでながら、
「もし次郎ちゃんが、嘘でもいいから、今日から思いきってお母さんと呼んであげたら、どんなにお喜びでしょう。あの方はね、そりゃお気の毒な方よ、ちょうど次郎ちゃんと俊ちゃんぐらいな男のお子さんがお二人あったんだけれど、お二人とも、お亡くなりになってしまったんだってさ。だから、誰かにお母さんて呼ばれてみたいのよ。」
次郎は、はっとしたように、伏せていた眼をあげて、お延を見た。
「だのに、次郎ちゃんが寄りつきもしないようだと、どんなにあの方、がっかりなさるでしょう。……それにね、次郎ちゃん、あの方はもう正木の人になっておしまいになったんだよ。お祖父さんと、お祖母さんとでね、亡くなったお母さんの代りをしていただく方なんだから、そうしてもらった方がいいっておっしゃってね。わからない? わかるでしょう。」
次郎はうなずいた。
「だから、もしかして、あの方が次郎ちゃんとこに行けなくなったら、そりゃ大変なことになるのよ。だいいち、あの方どこにどうしていていいか、わからなくなっておしまいになるわ。せっかく、次郎ちゃんのために来てくださろうとおっしゃっているのに、お気の毒じゃないの? お祖父さんや、お祖母さんだって、もしかそんなことにでもなったら、どんなにおこまりでしょう。」
次郎は、もう、世間というものがまるでわからない子供ではなかった。むしろ、そうしたことでは、兄弟や従兄弟たちの誰よりも、ませているともいえるのだった。それに、彼の持ちまえの侠気《きょうき》というか、功名心というか、そうしたものが、彼自身でも気づかない間に、そろそろと頭をもたげていた。
「僕、じゃあ、母さんって言うよ。」
彼はいかにも無雑作《むぞうさ》に答えた。しかし、答えてしまって妙な味気《あじけ》なさを覚えた。それはちょうど精いっぱい力を入れて角力をとっている最中、何かのはずみで、がくりと膝をついたような気持だった。
お延には、次郎の返事があまりにだしぬけだった。彼女は、もっと何か言うつもりでいたらしかったが、一瞬、あっけにとられたように眼を見はった。それから膝をのり出し、次郎の顔を下からのぞくようにして、
「そう? ほんとう?」
と、念を押した。
次郎は念を押されると、何だかあともどりしたくなって来た。
前へ
次へ
全77ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング