れからうちの人になっていただくんだから――」と言ったのを思いだして、変だなあと思った。
 誰もしばらく物を言わない。二人がむしゃむしゃ口を動かしている音だけが聞える。
 次郎は畳のうえに落していた眼をあげて、もう一度、そおっとお芳の顔をぬすみ見た。ほんの一瞬ではあったが、相手が都合よく彼の方を見ていなかったので、かなりこまかに観察することが出来た。下唇が少し突き出ている。顎の骨も、肉で円味を帯びてはいるが、並はずれて大きい。その唇と顎とが盛んに活動している様子は、次郎の眼にあまり上品には映らなかった。
「たべたくないのかえ。」
 お祖母さんがもどかしそうに言った。
「ううん」
「じゃあ、おたべよ。」
 次郎はやっと丸芳露を口にもって行った。しかし、たべだすと、またたくうちに平らげてしまった。
「もう一つあげましょうね。」
 お芳が、丸芳露を箸ではさみながら言った。次郎は返事をしなかったが、差し出されると、今度はすぐ受取って、ぱくぱく食べ出した。
 お祖母さんとお芳とがいっしょに笑い出した。
「さあ、もうきまり悪くなんかなくなったんだろう。もっとそばにおより。」
 お祖母さんが火鉢を押し出すようにして言った。
 次郎の気持は、しかし、まだちっとも落ちついてはいなかった。彼は、一刻も早く部屋を出て行きたいと思った。
「僕、宿題があるんだけれど――」
 彼はとうとうまた嘘を言った。が、この時は不思議に気がとがめなかった。
「そう?」
 と、お祖母さんはちょっと思案してから、
「じゃあ、宿題をすましたら、すぐまたおいでよ。お話があるんだから。」
 次郎は、お話があると言われたのが気がかりだったが、それでも、何かほっとした気持になって、座敷を出た。
 茶の間には、お延が微笑しながら彼を待っていた。
「次郎ちゃん、どうだったの、いいことがあったでしょう?」
 次郎はむっつりして、お延の顔を見た。そして、返事をしないで、放り出しておいたカバンを乱暴にひきずりながら、二階の方に行きかけた。
 お延の顔からは、すぐ微笑が消えた。
「どうしたの、次郎ちゃん。」
 彼女は縫物をやめ、次郎のまえに立ちふさがるようにして、その肩をつかまえた。
「まあ、ここにお坐りよ。」
 次郎はしぶしぶ坐った。しかし顔はそっぽを向いている。
「どうしたのよ、次郎ちゃん。何かいやなことがあったの。叱られた?」
 次郎はそれでも默っている。
「まあ、おかしな次郎ちゃん。この叔母さんにかくすことなんかありゃしないじゃないの。」
 すると、次郎は急にお延の顔をまともに見ながら、
「お芳さんって、どこの人?」
 お延は、ちょっとあきれたような顔をした。が、すぐわざとのように笑顔をつくって、
「まあ、お芳さんなんて、駄目よ、そんなふうに言っちゃあ。」
「どうして?」
「どうしてって、お祖母さんは何ともおっしゃらなかったの。」
「言ったよ。これからうちの人になるんだって。」
 お延はちょっと考えてから、
「そう? いいわね。うちの人になっていただいて。」
「うちってどこ?」
「うちはうちさ。」
「ここのうち?」
「そうよ。」
「どうしてうちの人になるの。」
「さあ、どうしてだか、次郎ちゃんにわからない?」
 お延は探るように次郎の眼を見た。
「うちの何になるの?」
「あたしのお姉さん。……あたしより年はおわかいのだけれど、お姉さんになっていただくの。」
 お延の姉――亡くなった母――と、次郎の頭は敏捷《びんしょう》に仂いた。もう何もかもはっきりした。彼は、しかし亡くなった母の代りに、いま座敷にいる「お芳さん」を「母さん」と呼ぶ気にはむろんなれなかった。
「じゃあ、僕、あの人を何て言えばいいの、やっぱり叔母さん?」
「そうね――」
 と、お延はちょっと考えていたが、すぐ思い切ったように、
「叔母さんでもいけないわ。――ほんとはね、次郎ちゃん、あの方は次郎ちゃんのお母さんになっていただく方なの。あとでお祖母さんから次郎ちゃんに、よくお話があるだろうと思うけれど。……」
 お延はそう言って次郎の顔をうかがった。
 次郎は、しかし、もうちっとも驚いてはいなかった。また、そう言われたために、まえよりも不機嫌になったようにも見えなかった。彼はただ考えぶかそうな眼をして、じっとお延の顔を見つめていた。
「ね、それでわかったでしょう?――」
 と、お延は、いくらか安心したような、それでいて一層不安なような顔をしながら、
「だから、叔母さんなんて言ったら、可笑しいわ。今のうちは叔母さんでも構わないようなものだけれど、今度いよいよお母さんになっていただいた時に、すぐこまるでしょう。だから、はじめっから、お母さんって言う方がいいわ。」
 次郎は、あらためて「お芳さん」の顔を思いうかべてみた。しかし、その
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