いと思うよ。いつか、僕、乳母やにやった手紙に、人に可愛がられなくても、独りで立って行けるような強い人間になりたい、って書いたと思うんだけど、あれだけではいけないんだよ。ほんとうに強い人間になるには、人を可愛がらなくっちゃ駄目なんだよ。僕たちの校長先生は、いつもそう言ってるよ。」
「坊ちゃんは、まあ、何てお偉くおなりでしょう。」
お浜は、またきつく次郎を抱きしめた。次郎は抱きしめられながら、
「乳母やよりも、だから、僕、偉いんだろう。」
「ええ、ええ、……」
「父さんが僕を偉いって言ったの、うそじゃないんだろう。恭ちゃんが僕に負けたって言ったのも。」
「ええ、ええ、……乳母やはほんとうに駄目でしたわねえ、さっきはあんなこと言って。……あやまりますわ。ほんとうにあやまりますわ。そして、これから、坊ちゃんにお手紙でいろんなことを教えていただきますわ。……でも――」
と、次郎を抱いていた腕を、少しゆるめて、ひとり言《ごと》のように、
「こんなおやさしい坊ちゃんを、お祖母さんもお母さんも、どうしてこれまで、いじめてばかりいらっしたんでしょうねえ。」
「僕、わるかったからさ。正木のお祖父さんが、僕のちっちゃい時、人間に好き嫌いがあっては偉くなれない、って言ったことがあるんだけど、僕、それが今までわかってなかったんだよ。」
「でも、坊ちゃんだけがお悪いんじゃありませんわ。坊ちゃんは何ていったって、子供ですもの。やっぱりお祖母さんやお母さんが……」
「乳母やは、駄目だなあ。まだあんなこと言ってる。乳母やは、僕がお祖母さんや母さんを嫌いになるのが好きなんかい。」
「そうじゃありませんけれど……」
「なら、よせよ。僕がお祖母さんや母さんが嫌いになったら、お祖母さんだって、僕を嫌いになるだろう?」
「…………」
お浜は深い吐息《といき》をした。
「おっかちゃん!」
と、その時、お鶴がだしぬけに声をかけた。
「駄目ね、おっかちゃんは。……あたしだって、次郎ちゃんの言ってること、もうわかってるわよ。」
「乳母や、まだわかんないの――」
と、次郎はお浜の頸に手をかけて、
「お鶴だって、もう乳母やより偉いんだぜ。」
お浜は、もう一度軽い吐息をした。そして、
「ほんとうにね。」
と、しみじみと言ったが、
「だけど、それでいいんでしょう? 許して下さるでしょう。だって、誰よりもお偉い坊ちゃんをお育てしたのは、この乳母やですもの。」
お浜は、そう言って、もう一度そのしなびた乳房を次郎の手に握らせた。
三人は、涙ぐましい気持を、そのまま夢の中に運んで行った。そして、その夜は、抱く者と抱かれる者とが、全くその位置をかえたような一夜であった。
二〇 朝の奇蹟
子供の健気《けなげ》な道心というものは、しばしば大人の世界に奇蹟《きせき》を生み出すものである。次郎は一夜にして、お浜の盲目的な愛情に理性の輝きを与えた。そして、この奇蹟は、その翌日には、本田一家の生活に、更に一つの奇蹟を生み出す機縁になったのである。
お浜は、翌朝は、もう五時まえに眼をさましていた。そして、床の中で何かしきりに考えているようなふうだったが、店の戸を開ける音が聞えると、そっと、お鶴を起し、二人で台所に行って、何かとお芳の手伝いをした。やがて、みんなが起出し、家の中がひととおり片づいたあとで、彼女は、茶の間に一人で茶を飲んでいた俊亮の前に坐って、言った。
「あたし、今日は、ついでに、大巻さんにもごあいさつに上っておきたいと存じますが……」
「大巻に?」
と、俊亮はちょっと腑《ふ》におちないといった顔をして、
「そりゃ行くにこしたことはないし、向こうでも喜ぶだろうが、そう無理をせんでもいいよ、私から、そのうちに、お前の気持はつたえておくから。」
「でも、やっぱり、一度はぜひお伺いしておきたいと思いますし、またと申しておりますと、今度はいつ出て来れますやら……」
「そうか。しかし、今日そんな時間があるのかい。」
「ええ、朝のうちにお伺いすれば、夕方の汽車には間にあいますから。」
「すいぶん忙しいね。」
「もしか間にあわないようでしたら、迷惑でも、こちらにもう一晩泊めていただくつもりで……」
「そりゃあ、ここに泊るぶんには、幾晩《いくばん》でもいいさ、お前の都合さえつけば。……じゃあ行ってくるかな。」
「はい、是非そうさしていただきます。……それで、あのう、坊ちゃんをおつれ申したいのですけれど。」
「なあんだ、そうか。ゆうべのうちにちゃんと次郎と約束が出来ていたんだね。はっはっはっ。」
「いいえ、決してそんなわけではございません。あたし、大巻さんへは、はじめてですし、だしぬけに一人でもどうかと思いますものですから……」
お浜はまじめだった。俊亮はやはり笑いながら、
「
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