乳母やに言うことがあるからさ。」
「そりゃあ。可愛いんですとも、可愛いんですとも。乳母やがこんなにおこったりするのも、坊ちゃんが可愛いからですわ。だから乳母やがおこったからって、心配することなんかありませんわ。おっしゃりたいことがあったら、何でもおっしゃい。乳母やになら、何をおっしゃっても、かまいませんよ。……どんなこと? 乳母やのまだ知らないことで、なにかきっといけないことがあるんでしょう? お祖母さんのこと? それともお母さんのこと? きっとお母さんのことでしょう? ね、そうでしょう。」
 次郎は、自分の言おうとすることと、お浜のききたがっていることとが、まるであべこべなことだと知ると、出鼻をくじかれたような気持になり、しばらく默っていた。すると、またお浜が言った。
「じれったいわね、坊ちゃんは。……お鶴がいるのがいけませんの? だって、お鶴は坊ちゃんの味方じゃありませんか。乳兄弟ですもの。」
「お鶴がいたっていいさ。」
「じゃあ、早くおっしゃいね。」
「ねえ、乳母や。――」
「ええ。」
「僕の言いたいことは、乳母やの考えてるような悪いことじゃあないんだよ。」
「そう?」
「お祖母さんのことでも、母さんのことでもないんだよ。」
「そう?」
 お浜は、何か拍子《ひょうし》ぬけがしたような調子だった。
「ねえ、乳母や――」
「ええ……?」
「僕は乳母やよりも偉《えら》いんだろう。偉くない?」
「乳母やより? まあ、可笑しな坊ちゃん。乳母やどころですか、ほんとうはやっぱり恭さんよりも、お父さんよりもお偉いんですよ。誰よりもお偉いですよ。」
「ほんとうにそう思ってるんかい?」
「思ってますともさ。」
「でも、僕には、乳母やが嘘ついてるように思えるんだよ。」
「どうして? さっき、あたしがあんなこと言ったからですの?」
「うむ。……乳母やには、僕、ほんとうは意気地なしに見えるんだろう。」
「そんなことあるもんですか。あの時はちょっと言ってみただけなんですよ。坊ちゃんがあんまり負けてばかりいらっしゃるようだから。」
「負けるの、意気地なしなんだろう?」
「そ……そうね、そりゃあ、ほんとうに負けたら、意気地なしですともさ。」
「だから、僕、やっぱり意気地なしだろう。偉くなんかないんだろう。乳母やはそう思ってるんだろう。」
「まあ、坊ちゃん! 坊ちゃんは、どうしてそんなにひねくれてお考えになるの? 坊ちゃんらしくもない。」
「ひねくれているんじゃないよ。」
「だって――」
 と、お浜は、もう泣き声だった。
「乳母や、……乳母や……」
 と、次郎は、お浜のからだをゆすぶりながら、
「僕は、ちっともひねくれてなんか、言ってるんじゃないよ、ほんとうにそうだよ。」
「じゃあ、ど……どうして、あんな意地悪なことおっしゃるの?」
「意地悪じゃないよ。だって、乳母やの考えてることと、僕の考えてることとが、まるでちがってるんだから、しようがないよ。」
「じゃあ、どうちがっていますの?」
「乳母やは、僕がみんなに負ける、だから偉くないって、そう思ってるんだろう。」
「ほれ、また。」
「わかんないなあ、乳母やは。」
「わからないのは坊ちゃんですよ。」
 次郎は笑い出した。お浜も、つい、つりこまれて淋しく笑った。次郎は、しかし、すぐまじめになって、
「乳母や、負けるって、どんなこと?」
「負けるって、負けることですよ。」
 次郎はまた笑った。すると、今度はお浜がたずねた。
「じゃあ、坊ちゃんは、どうお考えなの?」
「僕はね、乳母やが勝ちだって考えていることが負けるってことで、負けるって考えてることが勝ちだってことだと思うよ。」
「まあ! 変ですわね。それ、どういうことですの?」
「乳母やは、人の喜ぶようなことをするの、いいことだと思う?」
「そりゃあ、いいことですともさ。」
「僕がお菓子をもってる。それを俊ちゃんがほしがるから、やる。すると俊ちゃんが喜ぶから、いいことだろう。」
「ええ、……それは……まあいいことでしょうね。」
「お祖母さんや、母さんに、僕がこれまでわるかったってあやまる。すると二人とも喜ぶ。それもいいことだろう。」
「ええ、……でも……」
「悪いの?」
「時と場合によりますわ。どんなに無理を言われても、坊ちゃんがあやまってばかりいらしったんでは……」
「だって、それで、お祖母さんも母さんもやさしい人になったら、いいんだろう。」
「それならいいですとも。」
「僕、きっと二人をやさしい人にしてみせるよ。」
 次郎は、きっぱり言いきった。お浜は默って考えこんだ。
「僕、ね、乳母や――」
 と、次郎は、また、しばらくして、
「僕、これまで人に可愛がられたいとばかり考えたのが悪かったんだよ。僕、これから、人に可愛がられるよりも、人を可愛がる人間になりた
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