とお芳との顔色を読んだりした。それでも、俊亮が、
「何を言うんだ。次郎ががっかりするじゃないか。あすは日曜だし、次郎も、一日、うちにいるんだぜ。」
と、叱りつけるように言うと、変に浮かない顔をしながらも、結局、泊って行くことにしたのである。
夕食の食卓は、わりになごやかだった。以前だと、本田の家で、お浜たちがみんなと同じ食卓につくことなどめったになかったのだが、きょうは俊亮の言いつけもあって、二人は、むしろお客あつかいにされた。
お浜は、しかし、そんなことよりも、やはり次郎の皿の中のものが気になった。彼女は、食卓につくと、すぐ、じろりと兄弟三人の皿を見まわした。そして、べつにわけへだてがあっている様子も見えなかったので、やっと安心したように箸をとった。
「次郎ちゃん、今夜は、乳母やと二階に寝ろよ。僕は階下に寝るから。」
恭一は、夕食がすんだあとで、そう言って自分の夜具を二階から座敷に運んだ。夜具といっても、夏のことで、敷ぶとんと丹前《たんぜん》ぐらいだった。
「じゃあ、蚊帳がせまくて窮屈だろうけれど、お鶴もいっしょに二階に寝てもらったら、どうだえ。」
お祖母さんが、わりあい機嫌のいい顔をして言った。
「それがいい。狭いのも、かえって昔を思い出していいだろう。校番室だって、そう広い方でもなかったからね。」
と、俊亮が笑った。
お浜も、やっと笑顔になった。
そのあと、お芳が、一人でこそこそと夜具をそろえて、それを階段の方に運びだした。それに気づくと、次郎がすぐ立って行き、階段のところでそれを受取って、二階に運んだ。
二人はべつに口をききあわなかった。次郎は、しかし、妙に心がおどるような気持だった。それはお浜と二階に寝るようになったからばかりではなかったらしい。
「まあ、すみません。あたしたちの夜具まで、坊ちゃんに運んでいただいて。」
次郎が夜具を運び終ったころ、お浜が二階にあがって来て、言った。お鶴もそのあとについて来ていた。
六畳の蚊帳の中に、三人の夜具を入れるのは、かなり無理だった。それでも、どうなり蚊がはいらないだけの工面をして、三人は、はしゃいだ笑い声を立てながら、もう一度、階下におりた。
みんなが床についたのは、十一時ごろだった、二階では、お浜がまん中に、その右に次郎、左にお鶴が寝た。さほど寒い夜でもなかったので、寝てみると案外楽だった。三人の胸の中には悲しいまでの喜びが、しっとりしみ出ていた。
むろん、誰もすぐにはねむれなかった。お浜の口からは、校番室の頃の思い出が、つぎつぎにくりひろげられて行った。次郎とお鶴とはほとんど聞き役だった。ことにお鶴は無口で、合槌もめったにうたなかった。それでも、彼女が耳をすましていたことは、何か可笑しい話が出ると、すぐ「くっくっ」と笑い出すので、よくわかった。
お浜の思い出話の中には、次郎の記憶に残っていないことが、かなり多かった。次郎とお鶴がよく乳を争って泣いたこと、それがやかましいと言って先生に叱られ、お浜が一人を抱き、一人をおんぶして田圃道を歩きまわったこと、抱かれた方はすぐ泣きやむが、おんぶされた方はなかなか泣きやまなかったこと、――また、三歳か四歳ごろ、次郎が昼寝をしているお鶴の耳に豌豆《えんどう》を押しこんで、大騒ぎをしたこと、改作爺さんの入歯を玩具にして、一日、どうしてもそれを返そうとしなかったこと、北山の山王祭の人ごみの中で、買ってもらったおもちゃの風車をやたらにふりまわし、若い女の結い立ての髪にそれをひっかけて、その女を泣かしたこと――お浜は、そうしたことを、次から次に話していったが、次郎にとっては、たいていはもう覚えのないことだった。
「それでも、あたし、坊ちゃんがどんなにおいたをなすっても叱ったことなんて、一度もありませんでしたよ。お鶴の方がしょっちゅう叱られ役でしたわ。その代り、勘さんが、よく坊ちゃんを叱りましたわね。」
次郎は、そう言われて、すぐお鶴の頬ぺたのお玉杓子をつねった時のことを思い出した。そして、そのお鶴がこんなに大きくなって、お浜のすぐ向こう側に寝ているんだ、と思うと、何だかうそのような気がするのだった。
「でも、乳兄弟って、いいものですね。小さい時には、自分の乳をとられたうえ、いつもいじめられてばかりいたお鶴が、坊ちゃんからの手紙っていうと、そりゃ大さわぎで私に読んできかせるんですもの。ほんとの兄弟でも、なかなかそんなじゃありませんわね。」
お浜は、しみじみとした調子でそう言った。次郎は、お鶴の顔を闇の中で想像しながら、きょう学校の帰りにふと頭に浮かんだ「運命」という言葉を再び思い出して、深い気持になった。
お浜にとって、何よりも悲しい思い出は、何といっても、校舎の移転と同時に校番をやめなければならなくなったおりの
前へ
次へ
全77ページ中69ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング