ことだった。彼女は、その話をし出すと、もう涙声になり、その当時の村長や校長を何かとこきおろすのだった。
「あたしたち、その頃はもう校番をやり出してから、十年近くにもなっていたんですよ。それを、学校が新しくなったからって逐い出すんですもの。あんな不人情の人たちってありゃしませんよ。それに、だいいち、私には坊ちゃんて方があったんでしょう。これで坊ちゃんにもいよいよお別れかと思うと、もう、くやしくって、くやしくって、いっそ一思いに新しい校舎に火をつけてやろうかと思ったこともありましたよ。」
 次郎にも、そのころの記憶は、まだまざまざと残っていた。彼は言った。
「僕、あれから、毎日一度は、きっと古い校舎に遊びに行ってたよ。」
「そう? 坊ちゃんも、やっぱり、乳母やにわかれて、淋しくっていらしったのね。」
「でも、あの校舎がなくなって、野っ原になった時には、いやだったなあ。僕、校番室のあとに残ってた石に腰かけて、泣いたことがあったよ。」
 次郎は、お鶴から来た年賀状のことを思い出したが、それについては何とも言わなかった。
 部屋の中は、しばらくしいんとなった。が、やがてお浜の夜具がもぞもぞと動いたかと思うと、次郎は、もう夜具の上から、彼女の腕に抱かれていた。
「坊ちゃん、ほれ、このお乳ですよ。お鶴と二人で取りあいっこなすったのは。」
 お浜は、次郎の手を探して、むりに自分の乳を握らせた。
「もうこんなにしなびてしまいましたわ。あのころは、坊ちゃんのお顔をすっかり埋めてしまうほどでしたのに。」
 次郎は、お浜のあばら骨にへばりついている、つめたい、弾力のない肉の上に、ちょっぴり盛りあがっている乳房を指先に感じて、変に気味わるく思いながらも、何か、こう、泣きたいような甘さを胸の奥に覚えた。
「坊ちゃんが、お母さんのお乳をおいただきになったのは、たった二十日ばかりで、あとは、みんなこのお乳でしたのよ。だから、あたし、心のうちではいつもお母さんに威張っていましたの。……でも、……」
 と、お浜は、かなり永いこと默りこんでいたが、急に身をおこして、自分の夜具にもぐりこみながら、
「ああ、あ、そのお母さんも、もういらっしゃらないし、乳母やも、威張るのに、ちっとも張合いがありませんわ。こうしてひさびさでお伺いしても、坊ちゃんのことを、どなたとしみじみお話ししていいのやら……」
 お浜は、それから、お民の危篤の電報を受取って正木の家に駆けつけたおりの話をし出し、
「お母さんは、乳母やに、一度あやまっておかないと気がすまないって、おっしゃって下さいましたわね。覚えていらっしゃるでしょう。」
 と、鼻をつまらせた。そして、
「気がお強くって、あたしも、しょっちゅう叱られてばかりいましたけれど、そりゃあ、何でもよくおわかりの方でしたわ。坊ちゃんのことだって、ああして最後までお気にかけて、わざわざあたしをお呼び下すったんですものねえ。それに、何と言ったって、実のお母さんですわ。実のお母さんなればこそ、あたしのようなものにまで、あやまるなんておっしゃって下すったんですわ。血をひかない他人には、とても出来ないことですよ。」
 お浜の言葉にさそわれて、亡くなった母の思い出にひたりきっていた次郎は、そこで、急に何かにつきあたったような気がした。
(乳母やは、今度の母さんのことで、何かいけないことを言おうとしているんだ。)
 彼はすぐそう思って、落ちつかなかった。そして、お浜のつぎの言葉を待つのが、何だかいやだった。で、彼はとっさに言った。
「そんなこと、あたりまえじゃないか、乳母や。」
「あたりまえって言えば、あたりまえですけれど……」
 と、お浜は、そのあとをどう言ったら、自分の言いたいことが言えるのか、ちょっとまごついたらしかったが、急に調子をかえて、
「あたし、ねえ、坊ちゃん、きょうお伺いして、ほんとうは、がっかりしていますのよ。」
「どうして?」
 次郎は、不安な気がしながらも、そう問いかえさないわけにいかなかった。
「どうしてって、あたしは坊ちゃんの乳母やでしょう。それがきょうしばらくぶりでお訪ねしたんじゃありませんか。そしたら、かりにも坊ちゃんのお母さんと言われる人なら、何とか、もう少しぐらい、しみじみと坊ちゃんのお話をして下さるのが、あたりまえですわ。」
「母さんは、ふだんから、あまり物を言わないんだよ。」
「そうかも知れませんが、それにしても、あんまりですよ。坊ちゃんが学校からお帰りになるまえだって、一言も坊ちゃんのことはおっしゃらなかったのですよ。お話しになるのは、お祖母さんばっかり。……ねえ、お鶴、そうだろう。」
「ええ、そうだわ。」
 お鶴は、いかにも不平らしく、強く合槌をうった。
「それに、お祖母さんのお話ったら、きいてて腹が立つことばかりなん
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