笑っている。
「話すよ。……だけど、父さんにも聞いてもらおうかなあ。……そうだ、お祖母さんにも、母さんにも、聞いてもらった方がいい。階下《した》におりようや。」
 次郎は何か喜びに興奮しているようだった。
「階下に?」
 と、お浜は、もうしばらく二人きりでいたいようなふうだったが、すぐ思いかえしたらしく、
「そう、階下にいらしって下さる方がいいわね。どうせ乳母やは今夜はとめていただきますから。」
「恭ちゃんは、まだ帰らないかなあ。僕の話、恭ちゃんにも、いっしょにきいて貰うといいんだけれど。」
 次郎はそう言ってさっさと先きにおりた。お浜は、ちょっと恭一と次郎との机の様子を見くらべてから、そのあとにつづいた。
 二人が階下におりると間もなく、恭一も帰って来た。それまで、あまり機嫌のいい顔をしていなかったお祖母さんも、すると、急に顔がほぐれ出した。座はわりあいに賑やかだった。少くとも次郎には、何かしら、いつもより賑やかなように感じられた。
 彼は今日の出来事を話し出すいい機会をねらっていたが、なかなかそれが見つからなかった。お浜は、そのことを忘れてしまっているかのように、お芳に向かって昔の話ばかりした。そして、
「今日学校でお会い出来たのも、ただごとではございませんよ。だって、生徒さんもずいぶん沢山でしょうのに、たまたま坊ちゃんが一人でおいでの時に、通りあわせるなんて。」
 と、もうまえに何度も話したらしいことを、もう一度|仰山《ぎょうさん》に言った。それから、
「ああ、そうそう。」
 と、次郎を見て笑いながら、
「さっきのお話、どんなことですの、乳母やのおかげで、ご本がどうとかって?」
 次郎は、そこで、父の方を見ながら、今日学校でお浜にあってからの出来事をくわしく話した。何もかもかくさなかった。小刀のこともむろん話した。ただ室崎のことだけは、五年生とだけで名を言わなかった。朝倉先生をほめあげたのはむろんだが、室崎のことも、事実を話す以外には、決して悪くは言わなかった。
「だって、朝倉先生にいろいろ教えて貰ったのは、五年生のおかげでしょう。もとは乳母やのおかげだけれど。」
 彼は非常に真剣な顔をしてそんなことを言った。
 亡くなった母のことが、話しているうちに何度も彼の頭に閃いた。彼は、しかし、それだけは決して口に出さなかった。最後に、彼は、両膝の間に握り拳をならべて、きまりわるそうに体をゆさぶりながら、
「僕、もうきっと誰とも喧嘩なんかしません、学校でだって、家でだって。……これまで、僕、自分のことっきり考えてなかったことが、よくわかったんです。だから……だから……」
 彼は何度も言いよどんでは、お祖母さんと、お芳の顔を見くらべていたが、そのまま首をがくりと垂れて、涙をぽたぽたと拳の上に落した。
 一瞬、しいんとなった。
 それまで、お祖母さんは、小刀のことでいつ俊亮が次郎を叱るかと、それを待っているかのように、眼ばかりじろじろさしていたが、次郎の涙を見ると、ちょっと意外だという顔をした。それから、ちらとお浜を見たあと、少してれたような、そして、うわべだけでもなさそうな笑顔をして、言った。
「次郎もそこに気がついたのかえ。なあに、そこに気がつきさえすれば、お祖母さんだって叱ってばかりはいないよ。やっぱり中学校には行くものだね。」
 お芳はただうなだれていた。
 お浜は、少しけんのある眼をして、お祖母さんとお芳とを見くらべていたが、そのまま唾をのみこんで、今度は俊亮の方を見た。
 俊亮は眼をつぶって木像のように坐っていた。
「次郎ちゃん、僕、すっかり次郎ちゃんに負けちゃったよ。」
 と、恭一が、その時、膝を乗り出すようにして、
「しかし、朝倉先生はやっぱり偉いなあ。僕、これまで偉いとは思っていたんだが、それほどだとは思っていなかったよ。……そして、その五年生って誰だい。」
「ううん、誰にも名前は言えないよ。」
 次郎は、うつむいたまま答えた。
「そうか、多分あいつだろうと思うけれど。……しかし、まあいいや、誰だって、よくなりさいすりゃ、いいんだから。」
 俊亮は、その時、やっと眼を見開いて、
「父さんも、もう次郎には負ける。うちで一番偉いのは次郎らしいね。これも乳母やのおかげかな。」
「坊ちゃん!……」
 と、お浜はやにわに次郎に飛びついて、その肩を抱きすくめた。
 お鶴は顔を赧らめて見ており、俊三はきょとんとして眼を見張った。

    一九 夜の奇蹟

 お浜には、しかし、まだ何か割り切れないものが残っているらしかった。
「一晩泊めていただくつもりで、あがりましたの。」
 彼女は、来ると、すぐ、そう言っておきながら、夕飯ごろになると、お鶴に向かって、
「でも、やっぱり、おいとましましょうかねえ。」
 などと言って、お祖母さん
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