という言葉が思い出された。かつて徹太郎に聞いた「運命」という言葉も顔に浮かんで来た。やはりどこかに神様というものがいて、いつも自分たちをみており、自分たちのために伺か考えているのではないか、という気もした。
 しかし、それまでは、彼の気持は、まだ割合に静かだった。彼の考えは、つぎの瞬間には、乳母やから亡くなった母のことに飛んで行ったのである。
(自分を乳母やの家に預けたのは、亡くなった母さんだったのだ。そして、母さんがもし自分を乳母やに預けていなかったとしたら乳母やは今日学校のそばを通りはしない。すると――)彼は、そう考えて、思わず大きな息をした。彼の眼には、ひさびさで、地下の母の顔がはっきり浮かんで来た。やはり、観音様に似た顔だった。笑っているようにも思えた。心配している顔のようにも感じられた。
 やがて朝倉先生の顔が母の顔にならんで現れた。するとその二つの顔が、何か自分のことについて話しあっているようにも思えて来た。
 次郎は、人間同士のつながりの広さと深さというものを、幼い頭ながらも、考えてみないわけにはいかなかった。そして、悲しいような、恐ろしいような、それでいて、何か気強いような、そしてまた楽しみなような、一種不思議な感じに包まれながら、いつの間にか、自分の家の前まで来ていた。
 門口をはいると、茶の間からきこえるかん高い話し声で、もうお浜の来ていることがわかった。
 お浜は次郎の姿を見ると、跳び上るように立って来て、彼を上り框にむかえた。お鶴も、はにかみながら、お浜のうしろに坐ってお辞俵をした。
 次郎は、しかし、さきほどからの感動から、まだ十分にはさめていなかった。彼は、何か不思議なものでも見るように、お浜を見、お鶴を見、そしてお祖母さんや、俊亮や、お芳や、俊三を見まわして、突っ立っていた。
「どうかなすったの?」
 とお浜が心配そうにたずねた。
「ううん、――」
 と、次郎はほとんど無意識に首をふった。それから、急に思い出したように、
「唯今。」
 と、みんなに挨拶して、そのまま、さっさと二階へ上って行った。
 お浜はうろたえた顔をして彼を見おくった。俊亮はちょっと厳めしい顔をした。お祖母さんはじろりとお浜とお芳の顔を見くらべた。お芳には、これといってとくべつの表情は見られなかった。そして、俊三とお鶴とは、不思議そうにみんなの顔を見まわした。
 次郎は自分の机のうえに学校道具をおくと、立ったまま、何か思案した。恭一はまだ帰っていないらしく、帽子も雑嚢も見当らなかった。
 見るともなく恭一の本立を見ているうちに、次郎の眼はその中の一冊にひきつけられた。仮綴の袖珍本で、背文字に「葉隠抄」とあった。次郎はいきなりその本を引き出して、頁をめくった。
 最初の頁に、学校の講堂の額になっている「四誓願」が大きな活字で印刷してあった。つぎの頁には、朝倉先生の言った「武士道ということは死ぬことと見つけたり。」という文句が見つかった。それには朱線がひいてあった。彼はそれから、つぎつぎに、朱線のひいてあるところだけを見て行った。わかりにくい文句がかなり多かったが、また、彼の今の気持にぴったりする文句もちょいちょい見つかるので、吸いつけられるように、さきへさきへと眼を通して行った。
「……人に勝つ道は知らず、我に勝つ道を知りたり。……」
「……損さえすれば相手はなきものなり。……」
「……大慈悲より出ずる智勇が真のものなり。……」
「……よきことをするとは何事ぞというに、一口にいえば苦痛をこらうることなり。……」
「……わがために悪しくとも、人のためによきようにすれば、仲悪しくなることなし。……」
「……若きうちは、随分不仕合わせなるがよし。不仕合わせなるとき、くたびるる者は役に立たざるなり。……」
 そうした文句は、どれもこれも、彼自身のために書かれているような気がした。とりわけ、最後の二句は悲しいまでに彼の心に響いた。彼は読み進むのに夢中だった。
「おや、もうお勉強?」
 いつの間にか、お浜がうしろに立っていた。次郎がふりむくと、お浜はぴったりと彼によりそって坐りながら、
「お試験でもありますの? 今日は土曜でしょう。」
 お浜の眼は何か淋しそうだった。次郎ははっとして本を閉じた。そして、いきなりお浜の膝に両手を置いて言った。
「僕、きょう、乳母やのおかげで、先生にこの本の話をきいたもんだから、ちょっと読んでいたんだよ。」
「乳母やのおかげですって?」
「うん、そうだよ。乳母やのおかげだよ。」
「坊ちゃんてば。……ほほほほ。」
「ほんとうだい。ほんとうに乳母やのおかげさ。嘘なもんか。」
 次郎は怒っていると思われるまでに、真剣だった。
「そう? じゃあ、そのわけ聞かしてちょうだい。」
 お浜は、まだ信じられない、といった顔をして
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