澄んだ眼で、じっと次郎の顔を見つめたあと、いかにも静かな調子で答えた。
「それは見事に死ぬためさ。」
 次郎には、全く思いがけない答えだった。彼は驚いたように、先生を見た。
「むずかしいかな。」
 と、先生は、ちょっと首をかしげて、微笑した。そして、しばらく考えていたが、
「山岡鉄舟という人は、非常な剣道の達人《たつじん》で、しかも幕末の血なまぐさい頃に仂いた人だが、一生、人を斬《き》ったことのない人だそうだ。むろん戦場に出たら、そういうわけにも行かなかったろうさ。しかし、その機会もなかったらしい。だいいち、日本人同士で戦うのを非常に残念がっていた人で、徳川慶喜の旨をうけて、官軍の方に使いをしたこともあるんだ。そういう人だから、決してむやみに人を殺さなかった。つまり活人剣――人を活かす剣だね――それが山岡鉄舟の信念だったんだ。――」と先生はちょっと言葉を切って、
「この活人剣というのは、自分にけちな根性があっては握れるものじゃない。己に克《か》つ、――聞いたことがあるだろう、己に克つって。――その己に克つことが、活人剣を握る人の心構えなんだ。己に克つというのは、自分だけの利益とか、名誉とか、幸福とかいうものをすてて、一途に国のため、世のため、人のためにつくそうとする心になることなんだ。つまり、見事に死んで、見事に生きよう、というのだね。武士道ということは死ぬことと見つけたり、――葉隠《はがくれ》にはそんなことが書いてある。君らには、葉隠はまだ少しむずかしいかも知れんが、少しずつ読んでみるといいね。講堂にかかげてある額も、葉隠にある言葉だよ。四誓願といって、それが葉隠の大眼目なんだ。武士道、忠孝、大慈悲、この四つを神仏に念じて、尺取虫のようにじりじりと進んで行こうというのだ。しかし、四誓願といっても四つがべつべつではない。心はただ一つだ。忠も、孝も、武士道も慈悲も、つまり見事に死ぬことだよ。見事に死んで、見事に生きることだよ。君らは剣道でその稽古をしているわけなんだ。」
 鐘が鳴った。
 朝倉先生は立ち上ってズボンの塵を払いながら、
「じゃあ、そのつもりで、しっかり稽古したまえ。大慈悲を起し人のためになるべき事、――いいかね。」
 次郎は、お辞儀をすますと、いっさんに道場の方に走った。朝倉先生は、そのいきいきした姿が見えなくなるまで、彼を見おくっていたが、やがて大きく息をして、白楊の高い梢を見あげた。
 真っ青な空には、一ひらの白い雲がしずかに浮いていた。

    一八 転機

 大巻のお祖父さんの仕込みもあって、入学の当初から次郎は剣道に熱心だったが、その日はとりわけ懸命に稽古を励んだ。彼の心構えには、何か知らいつもとちがったところがあり、打っても打たれても気分は爽やかに落ちついていた。ふだんだと、打たれていきり立つとか、勝ちほこって相手をからかってみるとか、いうようなことがないでもなかったが、その日は、ふしぎに、そんな気には少しもなれなかった。
 稽古を終えて、校門を出ると、すぐ前の昔の城址に、こんもりともりあがっている樟の青葉がしずかな輝きを彼の眼に送った。彼は、何かこう、胸の中がすきとおるような気持だった。道場で流した汗は、まだ流れつづけていたが、暑い日ざしもさして苦にはならなかった。
 彼は朝倉先生のことを思いながら、歩いた。先生の一つ一つの言葉よりも、先生の人がらからうけた感じが、彼の心を強くとらえていた。
 歩いて行くうちに、彼の連想は、つぎつぎに時間を逆に進んで行った。白楊の蔭、銃器庫の裏、三つボタン、赤い日傘、そしてお浜との柵をへだてての対話、そこまで行くと、彼の足どりはやにわに早くなった。
 彼は、しかしそれからまだ一丁とは行かないうちに、ふと、何かにぶっつかったように立ちどまった。そして、すぐまた歩き出したが、その一歩一歩は何かにひっかかってでもいるかのようにのろかった。彼は、これまで彼の心にかつて浮かんだことのない、ある妙な考えに捉われはじめていたのである。
(自分がきょう朝倉先生を知ることが出来たのは、室崎のおかげだ。朝倉先生は彼を無慈悲だと言ったが、その無慈悲な彼が、自分をあのりっぱな先生に結びつけてくれたのだ。)
 これは次郎にとって、たしかに大きな驚きの種であった。が、彼の驚きは、ただそれだけではなかった。
 彼はまた考えた。
(室崎が自分に無法な言いがかりをしたのは、お鶴のためだった。そして、お鶴をつれて学校のそばを通ったのはお浜だった。お浜はなぜ学校のそばを通る気になったのか。それは自分の乳母やだったからだ。そうしてみると、自分を今日朝倉先生に結びつけてくれたのは、ほんとうは乳母やだったということになる。)
 彼はそこまで考えて、世の中というものは実に不思議なものだと思った。「めぐり合わせ」
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