色の浅黒い、やや面長の、髯のない人だった。眼がすきとおるように澄んで、よく光っていた。年は権田原先生より少し若いくらいだった。
「だが、本田、――」
 と、先生は言いかけたが、ちょっと思案して、
「まあ、しかし、室崎の方からきこう。どうだ、君の気持は?」
 室崎は、ただうなだれていた。先生は、あわれむように彼を見ながら、
「正しい人間の強さというものが、今日こそしみじみわかったろう、いい教訓だ。本田を下級生だと思うな。先生にも出来ない教訓を君に与えてくれたんだ。逆怨《さかうら》みはそれこそ恥の上塗《うわぬり》だぞ。何を恥ずべきかがわかれば、君もほんとうの強い人間になれる。今のままだと、君ほど弱い人間は恐らくないだろう。私は、はっきりそれを言っておく。いいか。室崎。」
 朝倉先生は、そう言って、室時の首がさかさまになるほど垂れているのを、じっと見つめ、
「およそ何が恥ずかしいと言っても、無慈悲なことをするほど恥ずかしいことはないぞ。無慈悲な人間は、強いように見えて、実は一番弱いものなんだ。私は、君らが何の理由で喧嘩をやり出したかは知らん。また、このまま無事に治りさえすれば、強いて知ろうと思わん。だが、室崎の下級生に対する無慈悲な態度が、その理由の一つであったことに、間違いないだろう。講堂の額は、ただの飾りではないぞ。大慈悲を起し人の為になるべきこと、――君は、もう四年以上も、それを見つづけて来ているんではないか。校長が訓話のたびに慈悲心を説かれるのを、君は何と聞いて来たんだ。……ねえ、室崎、君は、校長が口で説かれるとおりの慈悲の人であったればこそ、今日まで無事に学校にいられたんだぞ。先生たちのうちに、誰ひとり君を弁護する者がなかった時でも、校長だけは、頑として君の退学処分を承知されなかったんだ。あんな生徒であればこそ見放してしまってはかわいそうだ、と言われてね。校長のその気持が少しでもわかったら、自分がもっと真面目になるのはむろんのこと、下級生にだってもう少しは人間らしい接し方がありそうなものだ。君は、元来、それほどのわからずやでもないはずだがね。」
 朝倉先生の言葉は、切々《せつせつ》として、はたで聞いている次郎の胸にも、深くしみていった。
「じゃあもういい。もう間もなく午後の時間だ。二人とも、これを縁に仲よくせい。それも大慈悲の一つのあらわれだ。……それから、今日のことはほかの生徒には秘密だぞ。喋ったって誰の名誉にもならん。」
 朝倉先生が立ち上ると、二人も立上った。そしていっしょに銃器庫の角をまがりかけたが、朝倉先生は思い出したように、
「おお、そうだ。本田にはまだ言うことがあった。本田は今度の時間は何だ。」
「剣道です。」
「じゃ道場の方にいっしょに歩きながら話そう。教室にはもう用はないかね。」
「竹刀をとって来ます。」
 次郎は走って自分の教室に入り、机の上に放ってあった弁当がらを始末して、すぐ朝倉先生のあとを追った。
 朝倉先生は、渡り廊下を通らないで、白楊《ポプラ》の並木を仰ぎながら、ぶらりぶらり外をあるいていた。次郎が追いつくと、ちょっと時計を見て、
「まだ少し時間がある。腰をおろそう。」
 と、一本の白楊の根もとの草に腰をおろし、次郎を手招きした。次郎が多少はにかみながら、並んで腰をおろすと、先生はすぐ話し出した。
「自分より強いと思っていたものに一度勝つと、そのあと善くなる人もあるが、かえって悪くなる人もある。君は多分よくなる方だと思うが、気をつけるがいい。とにかく自惚《うぬぼ》れないことだ。いい気になって増長しないことだ。自分は強いと自惚れたら、もうそれは弱くなっている証拠なんだからね。やはり慈悲心さ。慈悲心がある人は、どんなつまらん人間をでも軽蔑はしない。それから――」
 と、朝倉先生は微笑しながら、
「君は小刀を握っていたね。あの時はやむを得なかったかも知れんが、これからは、もう兇器だけはよした方がいい。戦争じゃないからな。日本人同士が傷つけあうようになっては大変だ。それにあんなものを使って勝ったところで、ほんとうの勝にはならん。心で勝つのが、ほんとうの勝だ。つまり、相手を恐れさせるんでなくて、慕わせる。それが最上の勝だ。そうなるとやはり慈悲心だね、一番強いのは。……とにかく刃物はいかんよ。相手のために危険であるというよりか君自身のために危険だ。なあに、自分がなぐられる覚悟をきめさえすれば何でもないよ。なぐられるたびに偉くなると思えば、なぐられるのがありがたいくらいなもんだ。」
 先生の言っている言葉の意味は、次郎にもよくのみこめた。しかし、気持としては、まだどこかぴったりしないところがあった。彼はいくぶんためらいながら、たずねた。
「先生、剣道は何のためにやるんですか。」
「うむ――」
 と、先生は、
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