た。彼は、一瞬あっけにとられたような顔をして次郎を見た。
が、次の瞬間には、彼は世にもみじめな存在だった。彼は、次郎をなぶろうとして、あべこべに次郎になぶられていたことに気がついたのである。――何という辛辣《しんらつ》な皮肉だ。そして何という上級生としての恥辱だ。こうなった以上、もう言葉だけで何と次郎をおどかそうと、ただ自分をいよいよ滑稽なものにするばかりだ。かといって、上級生の権威を護るための最後の手段に出ることは、次郎の右手に光っている小刀の危険を冒すことなしには、今や全く不可能である――彼は、実際、自分以上の無法者を、だしぬけに、しかも自分の小さな獲物を発見して、進むことも退くことも出来なくなってしまったのである。
行詰った三つボタンは、変なせせら笑いをするよりほかなかった。それは、多くの人々が自分の不正と卑怯とをごまかすために、しばしば用いる手段である。だが、それがいくらかでも役に立つのは、相手がこちら以上に不正で卑怯な場合だけである。次郎に対しては、むろん何のききめもなかった。しかも、次郎を動かしていたのは、もはや彼の機智だけではなかった。彼は公憤に燃えていた。いや、公憤というようは、もっと全生命的な、己を忘れた、そして、ただちに死に通ずるといったような気持が、彼を三つボタンに対して身構えさしていたのである。
三つボタンのせせら笑いを見ると、次郎はそれをはじきかえすように叫んだ。
「馬鹿! 何を笑うんだ。あの女の子は僕の乳母やの子じゃないか。僕は乳母やと今までそこで話していたんだ。それから二人を見おくっていたんだ。それが悪いんか! 自分で知りもしない女の子を眺めていた貴様と、どっちが悪いんだ!」
次郎の眼からは、もう涙があふれていた。彼は、しかし、罵りやめなかった。
「五年生は、制服のボタンがついてなくともいいんか! こんなところにかくれて、煙草を吸ってもいいんか! そんな五年生が僕たちの上級生なら、僕はもうこの学校にいなくてもいいんだ! なぐるならなぐってみい! 貴様のような奴に死んだって負けるものか! ち、ちく生! 卑怯者! ごろつき!」
次郎は、自分の声に自分で興奮して、何を言っているのか、もう、まるで夢中だった。
いよいよみじめだったのは、三つボタンである。そうまで言われては、彼も、いつまでもせせら笑いばかりはして居れなかった。されはといって、彼が「卑怯者」で「ごろつき」であることが、次郎の言うとおりであるかぎり、次郎が決死的になればなるほど、彼としては、始末がつけにくくなるのであった。
だが、彼にとって何という仕合わせなことか、――たしかにこの場合に限っては、彼もそれでほっとしたにちがいないと思うが――そのせっぱつまった場合に、ひょっくり校内巡視の先生がやって来たのである。
巡視は当番制で、ほとんど大ていの先生に割当てられていた。その日の当番は朝倉先生だった。朝倉先生は、尊敬に値すると噂されている先生の一人だったが、一年の教室に出ないので、次郎は、まだ、しみじみとその顔を見たことがなかった。
先生がやって来たのは、次郎が三つボタンに対して最後の罵声をあびせ終って、まだ三十秒とはたたないころだった。
それを最初に見つけたのは、三つボタンだった。それは、先生が次郎のうしろの方からやって来たからである。
先生は、ほんのちょっと、次郎の一間ほどうしろに立ちどまって、二人の様子を見た。それから、默って二人の横に立った。
三つボタンは、もうその時には、すっかりうなだれていた。しかし、次郎はあくまで身構えをくずさなかった。
先生の眼は、すぐ次郎の小刀にとまった。しかし、やはり口をきかない。そして、その眼はすぐ三つボタンの顔にそそがれた。それからおおかた二分近くもたったころ、先生は、だしぬけに草深い地べたにあぐらをかきながら、重いさびのある声で言った。
「まあ二人とも腰をおろしたまえ。」
三つボタンはすぐ腰をおろした。が次郎はまだ身構えたまま、先生を見ていた。すると、朝倉先生は、にっこり笑って次郎を見かえした。次郎は、それですっかり身構えをくずし、気がぬけたように腰をおろした。
「小刀はもう握っていなくてもいい。しまったらどうだ。」
先生にそう言われて、次郎は、自分がまだ小刀を握っていたことに、はじめて気がついたらしく、あわててそれを衣嚢に押しこんだ。
「君は一年だね。名は?」
朝倉先生は次郎の襟章を見ながらたずねた。
「本田次郎です。」
「本田か、ふむ。……だが、室崎と一|騎《き》打《うち》では、ちょっと骨だったろう。」
次郎は、三つボタンは室崎というんだなと思った。
「しかし立派だった。実は、君が室崎に言っていたことは、私もかげで聞いていたんだ。」
次郎は、あらためて先生の顔をみた。
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