った。お鶴も、その瞬間、まともに彼の方を見た。
 二人は、視線がぶつかると、あわてたように下を向いた。
 次郎は、すぐ教室の方に、帰りかけたが、途中でもう一度立ちどまって、柵の隙間を縫って行く赤い日傘を見おくった。
 次郎の心は、もう五六歳頃の昔に飛んでいた。お鶴の頬ぺたのお玉杓子をつねった時のことが、つい昨日のことのようにはっきり思い出された。――お鶴の様子はすっかり変っている。今ではもう自分の姉さんとしか思えないほどだ。だが、お玉杓子だけは、相変らず、昔のままにくっつけている。お鶴にとっては、むろんいやなことにちがいない。しかし、思い出というものは、何と甘い、そして美しいものだろう。――
 次郎は、つい、うっとりとなって立っていた。と、だしぬけに、うしろの方から、いやに落ちついた声がきこえた。
「おい……本田。」
 次郎は、ぎくっとしてふり向いた。すると、ちょうど銃器庫の角のところに、一人の上級生が、巻煙草を吸いながら、にやにや笑って立っていた。
 それは「三つボタン」だった。――尤も、この時は、彼の制服のボタンは四つにふえていたが。――
「貴様、そこで何をしていたんだ。」
 三つボタンは、肩をゆすぶりながら、次郎に近づいて来た。
 次郎はきちんとお辞儀だけをした。そして、そのまま默って、睨むように相手の顔を見つめた。
「ふん、知っているぞ。」
 三つボタンは、煙草の吸殻を捨てて、それを靴でふみにじりながら、両腕をくんだ。次郎は、やはりじっと彼を見つめているだけである。
「白状せい、白状せんと、なぐるぞ。」
 三つボタンは、腕組をといて、右手の拳を次郎の顔のまえにつき出した。次郎はそれでもたじろがなかった。そして、いくぶん血の気を失った唇をふるわせていたが、
「僕、何も悪いことなんかしていません。」
 と、食ってかかるように言った。
「何? 悪いことしていない? じゃあ、何でこんなところに一人でいたんだ。」
「用があったからです。」
「何の用だ。それを言ってみい。」
 三つボタンはにやりと笑った。
 次郎には、その下品な笑いが、鉄拳以上の侮辱のように感じられた。彼は返事をする代りに、思わず手を衣嚢《かくし》に突っこんで、小刀《ナイフ》を握った。
 三つボタンは、しかし、それには気がつかないで眼を柵の外に転じながら、
「言えないだろう。中学生が学校の柵の内から、道を通る女を眺めていたなんて、そりゃ自分の口から言えんのがあたりまえだ。」
 衣嚢の中で小刀を握りしめていた次郎の手は、もうすっかり汗ばんでいた。
「本田、――」
 と、三つボタンはいかにも訓戒するような調子になって、
「貴様の行いは全校の恥だぞ。しかも、貴様はまだ一年生じゃないか。一年生の時から、女に興味を持つなんて、生意気千万だ。将来の校風が思いやられる。」
 次郎は、相手が真面目くさった顔をして、そんなことを言うのを聞いているうちに、妙にくすぐったい気持になって来た。同時に、彼の態度にはかなりの余裕が出来た。彼の機智《きち》が動き出すのは、いつもそんな時である。
 彼はすまして言った。
「僕、女なんか見ていません。」
「馬鹿! 現に見てたじゃあないか。」
「見てたっていう証拠がありますか。」
「何! 証拠だと? ずうずうしい奴だな。証拠は俺の眼だ。」
「じゃあ、どんな女を見てたんです。」
「こいつ!」
 と、三つボタンは真赤になって次郎を睨んだ。が、すぐ、どうせ相手は鼠でこちらは猫だ、というような顔をして、
「貴様はなるほど偉い。俺も一年生に詰問《きつもん》されたのは、はじめてだ。五年生も、こうなっては駄目だね。……まあ、しかし、折角の詰問だから、答えてやろう。俺がいいかげんな当てずっぽを言っているように思われてもつまらんからな。……貴様は、さっき、赤い日傘をさした女を眺めていたんだろうが。……どうだ、参ったか。」
 次郎はかすかに笑った。しかし、それは相手に気づかれるほどではなかった。彼はすぐ、いかにも解《げ》せないといった顔をして、言った。
「そんな女が通ったんですか。」
「とぼけるな!」
 と、三つボタンは大喝《だいかつ》して拳をふりあげた。もういよいよ我慢がならんといった彼の顔つきだった。
 が、その時には、次郎もすでに二三歩うしろに身をひいていた。しかも、彼は、彼の右手に、二寸余の白い刃を見せて、しっかと小刀を握りしめていたのである。
 次郎は、その小刀を腰のあたりに構えながら、青ざめた微笑をもらした。そして、唾を一息ぐっとのみこんだあと、吐き出すように言った。
「五年生だと、女が通るのを見ていいんか!」
 次郎のあまりにも思い切った態度や言葉づかいは、病的な伝統をそのまま上級生の正義だと心得ている三つボタンにとっては、全く信じられないほどの無礼さだっ
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