ようになってころがっている帽子が眼についた。それは、彼がついこないだ父に買ってもらったばかりの、そして、きのうはじめて、組主任の先生に渡された新しい徽章をつけたばかりの、彼の制帽だった。
 彼は思わずかっ[#「かっ」に傍点]となった。同時に、鼻の奥がすっぱくなって、そこから、熱いものが眼の底にしみて来るような気がした。しかし、彼は唇をゆがめてじっとそれをおさえた。そして、しずかにその帽子を拾い、ていねいに形を直し、塵《ちり》をはらってそれをかぶると、そのままさっさと渡り廊下の方に向かって歩き出した。
「こらっ! どこへ行くんだ!」
 五年生の一人が叫んだ。それは三つボタンらしかった。次郎は、しかし、ふり向きもしなかった。
「あいつ、いよいよ生意気だ!」
「このまま放っとくと、上級生の権威《けんい》にかかわるぞ!」
「つかまえろ!」
 五年生全体がざわめき立っているのをうしろに感じながら、次郎はもう渡り廊下を二三間ほども歩いていた。
 彼は、そこで、ちょっとうしろをふりかえってみた。すると雨天体操場の中から無数の視線がまだ自分を覗《のぞ》いており、その視線の一部を遮って、二人の五年生が入口の近くに向きあって立っているのが見えた。その一人は三つボタンであり、もう一人は最初に演説した生徒だった。
 次郎は、三つボタンが自分を追っかけるのを、演説した生徒がとめているんだな、と思いながら、足を早めた。
 次郎が本校舎の前まで来ると、ちょうど職員会議が終ったところらしく、先生たちがぞろぞろと玄関から出て来るところだった。彼は先生たちに顔を見られるのがいやだったので、校舎の陰にかくれて、人影の見えなくなるのを待つことにした。
 その間に、彼は、自分の着物――制服が出来るまで和服に袴《はかま》だった――が破けていないかをしらべてみた。不思議にどこにも大した破損はなかった。ただ袴の右わきに二寸ばかりの綻びがあるだけだった。時間割をうつすために持って来ていた手帳と、父に買ってもらった蟇口とを懐に入れていたが、それらは無事だった。
 肩や腿《もも》のへんに二三ヵ所|鈍痛《どんつう》が感じられ出したが、次郎はほとんどそれを気にしなかった。彼が最も気にしたのは、頬がはれぼったく感ずることだったが、手でさわってみると、さほどでもないらしいので安心した。
(これなら大丈夫、自家《うち》で気がつく人はない。)
 そう思って、門の方をのぞいて見ると、もう人影は見えなかった。彼は思いきって立ち上り、あたりに注意を払いながら門を出た。
 門を出ると、無念さが急にこみあげて来て、涙がひとりでに頬を流れた。だが、同時に、不正に屈しなかったという誇りが、彼の胸の中で強く波うっていた。彼の涙はすぐとまった。彼は一人で歩きながら、少しも淋しいという気がしなかった。「武士道」――「慈悲」――今日講堂で見たり聞いたりしたそんな言葉が、いつの間にか思い出されていた。そして、「慈悲」という言葉は、もう正木のお祖母さんを思い出させるような、そんなやさしい言葉ではないように思われて来た。
「涙のある人間だけが、すべてを支配することが出来るんじゃ。」
 大垣校長の言ったそんな言葉が、今更のように強く彼の胸にひびいて来た。
 歩いて行くうちに、山犬や、狐や、三つボタンのいやな顔がひとりでに思い出された。しかし彼はもう、それらをちっとも怖いとは思わなかった。それどころか、彼らのまえに青い顔をして並んでいた新入生達のことを思うと、一種の武者ぶるいみたようなものを総身に感ずるのだった。
 家に帰ると、彼は何事もなかったような顔をして、すぐ机のまえに坐った。そして、懐から手帳と蟇口とを出して、それを抽斗《ひきだし》にしまいこんだが、つい今朝まで、何かしらまだ気がかりになっていたその蟇口も、もう全く問題ではなくなっていた。
 彼の人生は、中学校入学の第一日目において、すでに急激な拡がりを見せていたのである。

    一五 親爺

 雨天体操場事件は、翌日になると、もう全校生徒の噂の種になっていた。恭一の教室でも、始業前からその話でにぎやかだった。
「その新入生、ちびのくせに、いやに落ちついていたっていうじゃないか。」
「五年生の方が、かえって気味わるがっていたそうだよ。」
「まさか。」
「いや、ほんとうらしい。さんざんなぐられていながら、涙一滴こぼさないで、じろりとみんなを睨みかえして、悠々《ゆうゆう》と帽子の塵をはらって出て行った様子は、ちょっと凄かったって言っていたぜ。」
「それよりか、狐の奴がその新入生に頬ぺたをひっかかれたって、ほんとうかね。」
「それはたしかだ。」
「何でも最初になぐったのは狐だそうだが、なぐったと思った時には、もう頬ぺたをひっかかれていたそうだ。」
「その新入生、よっぽ
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