側の前から十番目ぐらいのところにいたので、五年生に顔を見られる心配は比較的少かったが、それでもひとりでに頭が下っていた。で、もし、そんな狂気じみた状態が、そう長くつづかなければ、べつに大したこともなしに済んでいたかも知れなかったのである。
ところが、その獰猛な顔が引っこんだらしいと思うと間もなく、今度は癇《かん》の強い声が指揮台から聞え出した。新入生たちはちょっと顔をあげてその声の主をぬすみ見た。それは凄いほど眼の光った、青白い狐みたいな額の男だった。この男は、いかにも皮肉な調子で、ゆっくり、ゆっくり、新入生に難癖をつけはじめた。そして前の獰猛な顔の男とはちがって、地曳網の連中の声援があるごとに、それがひととおり終るのを、一種の余裕をもって待っているかのようであった。
そのうちに時間は三十分とたち、四十分とたって行った。次郎は次第にいらいらして来た。そしてたまらないほどの憎悪の念が腹の底からこみあげて来るのを覚えた。それでも、歯を食いしばって我慢していたが、指揮台の狐は、新入生を見渡しながら、つぎつぎにいろんな難癖の種をみつけ出して、いつまでもねばっていた。そして、しまいには、とりわけ皮肉な調子で、こんなことを言った。
「上級生が訓戒をしてやっているのに、君らは地べたばかりを見ている。それを無礼だとは思わんか。」
これには、地曳網の連中も、さすがに意想外だったらしく、すぐには声援が出来なかった。しかし一人が思い出したように、「そうだ失敬千万だ!」と言うと、つぎつぎに、「こいつら、聞いちゃおらんぞ」とか「上級生を馬鹿にするにもほどがある」とか、いろんな罵声《ばせい》が方々から起って来た。
新入生たちは、おそるおそる顔をあげた。しかし、みんな眼のつけどころに困っているようなふうだった。その中で、次郎一人だけが、わざとのように首をのばし、狐の顔をまともに睨んでいた。
しばらく沈默がつづいた。狐は新入生たちの顔を一人一人丹念に見まわしていたが、次郎の眼に出っくわすと、その視線はぴったりとそこでとまった。つぎの瞬間には、彼の頬に、つめたい微笑が浮かんだ。微笑が消えたかと思うと、彼の癇《かん》走った声がトタン屋根をびりびりとふるわすように響いた。
「おい、そのちび! 貴様はよっぽど生意気だ。出て来い!」
次郎は動かなかった。そして彼の眼は依然として狐を見つめたままだった。
「出て来いと言ったら、出て来い!」
もう一度狐が叫んだ。しかし次郎はびくともしなかった。
「上級生の命令をきかんか! ようし!」
狐は、そう叫んで指揮台を飛びおりると、新入生の列を乱暴に押しわけて、次郎に近づいた。そして、いきなり彼の襟首をつかみ、引きずるようにして、彼を指揮台のまえにつれて行った。すると、ほかの五年生が四五名、ぞろぞろとそのまわりによって来た。その中には、最初演説した生徒や、獰猛な山犬の顔は見えなかった。しかし、その代り、三つボタンが恐ろしい眼をして彼を見据えていた。
「名は何というんだ。」
狐がたずねた。
「本田次郎。」
次郎はぶっきらぼうに答えた。
「ふむ、生意気そうだ。」
三つボタンがはたから口を出した。
「貴様はさっき俺を睨んでいたな。」
狐が今度はうす笑いしながら言った。
「見てたんです。」
「何? 見ていた!」
「ええ、見てたんです。地べたを見るのは無礼だって言うから、顔を見てたんです。」
「理窟を言うな!」
鉄拳が同時に次郎の頬に飛んで来た。しかし、次郎の両手が狐の顔に飛びかかったのも、ほとんどそれと同時だった。
それからあと、次郎は何が何やらわからなかった。ただ真っ黒なものが周囲をとりかこみ、そこから手や足が何本も出て、自分のからだを前後左右にはねとばしているような感じだった。
「もう、よせ! もうこのくらいでいいんだ。」
山犬の声に似たどら声がきこえて、彼の周囲が急に明るくなったと思った時には、彼は地べたに横向きにころがっていた。彼の顔のまんまえには、ペンキのはげた指揮台が、二つ三つ節穴を見せて立っていた。
彼は、じっと耳をすました。
「馬鹿な奴だ。」
そんな声がどこからかきこえた。
彼は、その声をきくと、無意識に起きあがった。そして、くるりと向きをかえて新入生の方を見た。彼はもうすっかり落ちついていた。新入生たちは、みんな青い、おびえきったような顔をして、彼を見ていた。その青い顔の両側に、五年生たちが、にやにや笑って立っているのが、はっきり見えた。
次郎は、その光景を見ると、これからどうしたものかと考えた。もとの位置に帰る気には、とてもなれなかった。かといって、いつまでもそのまま立っているわけには、なおさらいかない。彼は、しばらく、じろじろと周囲を見まわしていたが、ふと目のまえに、ふみにじられた
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