みんな涙のある人間になってくれ。涙のある人間だけが、すべてを支配することが出来るんじゃ。」
と、演壇の端まで乗り出して来て言った時には、もうどう見ても、五年生にだけ話しているとしか思えなかった。
その時、五年生の中にはごく少数ではあったが、お互いに顔を見合って、変ににやにやしたり、傲然とのび上って、校長の顔をにらみ返すようなふうをしたりする者があった。次郎は、横からでよく見えなかったが、出来るだけ五年生の表情に注意していた。そして、何かしら、不安なものを胸の底に感じた。
式がすんだあと、教室で組主任からこまごまと注意があった。それでその日の予定は終りであった。ところが、組主任の先生は、自分の注意が終ったあと、気の毒そうな顔をして言った。
「五年生たちが、校風をよくするために、君らに雨天体操場に集まってもらって、何か話したいと言っている。これは毎年の例だ。間もなく誰かが迎えに来るだろうから、しばらくここで待っていてもらいたい。自分は今から職員会議があるから、その方に行く。」
そう言って先生はすぐに出て行った。残された新入生たちは、おたがいに顔を見合わせて默りこんだ。間もなく、五年生らしい生徒が、二人で、のっそり教室にはいって来たが、その一人は教壇に立って、じろじろとみんなを見まわした。人相がよくないうえに、制服のボタンが、五つのうち三つしかついていない。しかも一番上のと一番下のとがはずれていて、垢じみたシャツが上下からのぞいているのが、いかにもきたならしく見える。次郎は軽蔑したい気持になって来た。
と、だしぬけにその生徒がどなった。
「上級生に対して尊敬の念を持たない奴は、顔を見るとすぐわかるぞ!」
次郎は、あぶないところで冷笑を噛みころした。
「立て! 俺について来い!」
その生徒はまたどなった。そして肩をいからしながら教壇をおりて、廊下に出た。
新入生たちは、ぞろぞろと、しかし、何となくおたがいに先をゆずりたがっているようなふうで、そのあとについた。誰の口からも、囁き一つもれなかった。
もう一人の五年生は、みんなが教室を出るのを、入口に立っでじっと見ていたが、最後の一人が出てしまうと、默ってそのあとについた。この生徒の制服にはボタンが五つともそろっており、顔付もおとなしそうだった。次郎は、教室を出しなに、ちらと彼の顔をのぞいたが、べつに不愉快な感じも起らなかった。
雨天体操場までは、渡り廊下づたいで、かなり遠かった。次郎たちの組がついた時には、他の組の新入生たちは、もう、きちんとその中央にならばされていた。次郎たちは三つボタンの五年生の指揮で、その左側に四列縦隊にならんだが、トタン屋根をふいただけの、壁も何もない広々とした土間が、次郎には何か物凄く感じられた。
それまで、あちらこちらに散らばっていた五年生たちは、新入生の整列が終ったと見ると、急にそのまわりをぐるりと取りまいた。それは、ちょうど地曳網《じびきあみ》をおろしたといった恰好であった。
それが終ると、体操の指揮台のうえに、一人の五年生が現れた。三つボタンとはちがって、非常に品のいい、聡明そうな顔つきをしている。彼は、かくしから小さな紙片を取り出し、割合しずかな調子で演説をはじめた。
演説の内容は、次郎にはよくわからなかった。言葉の言いまわしが変にこみ入っている上に、まだ聞いたことのない漢語が多過ぎたのである。しかし、悪いことを言っているようには、ちっとも思えなかった。
「校風は愛と秩序によって保たれる。上級生は愛を以て下級生に接するから、下級生は秩序を重んじて上級生に十分の敬意を払ってもらいたい。」
だいだいそんなような意味に受取れた。そして最後に、
「以上、五年生を代表して、新入生諸君に希望を述べた次第である。」
と言って、その生徒は指揮台をおりた。次郎はそれで万事が終ったつもりになって、ほっとしていた。
ところが、それからあとが大変だった。そのつぎに指揮台の上にあらわれたのは、見るからに獰猛《どうもう》な山犬のような顔の生徒だった。そして、「貴様たちの眼付が、第一横着だ。」とか、「新入生のくせに、もう肩をいからしている奴がある。」とか、「講堂で五年生の方をぬすみ見ばかりしていたのは誰だ。出て来い。」とか、まるで酔っぱらいと気違いとをいっしょにしたような声でどなりはじめた。しかも、それを声援する役目を引きうけたのが地曳網の連中である。「そうだ!」――「その通りだ!」「引きずり出せ」――「ぶんなぐっちまえ!」
そうした声が、横からも、うしろからも、新入生たちの耳をつんざくように襲い、それがトタン屋根に反響して異様なうなりを立てた。
新入生たちの中には、もう誰も顔をあげている者がなかった。次郎は脊《せい》が低くて、しかも組の中では右
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